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03 噛む(上)

 
 犬と猿。嫁と姑。神と悪魔。
 
 この世にあるもので、敵対しない存在がないものなど等しくありえない。目の前の男が自分にとってまさしくそうだ、と疑う余地もなく断言出来る。にこにこと平穏な笑みを浮かべて此方を見つめる男を、反吐が出る思いで眺めながら真樹夫は腹の底で呟いた。清潔に整えられた髪、シンプルながらよく見れば高価なものだと判るベージュ色のスーツ、爪切りではなくヤスリで削られた丸い爪が憎らしいぐらいキザったらしい。
 
 溢れだして来た苛立ちを示すように、まだ吸い始めて一分も経っていない煙草を磨き上げられたテーブルに押し付ける。木目のテーブルに、醜く残る焦げ跡。ニスが溶ける臭いが空中に淡く漂って、直ぐに消える。男が僅かに顔を歪めているのが見えて、酷く小気味良い気分になった。
 
 
「灰皿があるのに、どうして真樹夫君はそういう事をするかな。そのテーブルだって安くないんだよ」
「あぁ、すまん。灰皿見えんかったわぁ」
 
 
 わざとらしい声音で吐き捨てる。困ったように肩を竦める男に『エセ紳士野郎』と唾を吐き掛けてやりたい衝動に駆られる。だが、唾を吐き掛けた瞬間、男の背後に佇む厳つい男共がいきり立つのは解り切った事だった。仁義だとか忠義だとか、腐りかけの言葉を吐きながら掴み掛かってくる男達の姿を想像すると、うんざりした心地に陥った。嗚呼、うざったいことこの上ない。
 
 こんなことなら、あの馬鹿犬も連れてくるべきだったか。『時岡んとこに顔出して来るわ』と言った真樹夫に対して、『俺も付いて行きます』と言って聞かなかった馬鹿犬。
 
 
『一人で行くなんて絶対危ないっす』
『絶対に、真樹夫さんが何て言っても、絶対絶対付いて行きます』
『俺、真樹夫さんの傍から絶対に、死んでも絶対に離れないっす』
 
 
 ゲシュタルト崩壊でも起こしたかのように『絶対』を乱発する馬鹿犬の腹を一発蹴り飛ばして、『付いて来たいなら、走って来いや』と吐き捨てたのが一時間前。此処まで徒歩で三時間以上は掛かるというのに。今頃あの馬鹿犬は家で鳴いているだろうか。
 
 焦げ付いたテーブルを横目で見遣って、ゆっくりと溜息を吐く。
 
 
「そもそも、ヤクザがマホガニーなんざ使うなや」
「ヤクザがマホガニーのテーブルを使っちゃまずいかい?」
「イメージの問題や。スマートで洗練されたヤクザなんざ、お伽噺の世界や。一般人のイメージらしく、もっと俗悪でなくちゃあかん」
「だから、真樹夫君は関西弁を使うんだね。俗悪であろうとする君の心は可愛らしいね」
 
 
 水商売の女に語り掛けるような甘ったるい口調が気色悪い。鳥肌の立った二の腕を掻きながら、不快感も露わに男を見据える。
 
 時岡忠司、時岡組の組長で、時折真樹夫を呼び出しては不快感極まりない時間を提供する男。歳は三十後半だったはずだが、よく覚えていない。やや童顔気味な顔立ちや若々しい肌は、眼前にいる男の年齢を時折忘れさせる。僅かに実年齢を思い出させるのは、目尻の笑い皺や手の甲にくっきりと浮かぶ血管ぐらいなものだ。吾妻組傘下の組のくせに、やけに真樹夫に馴れ馴れしく接する。手前の組なんか潰してやろうか、と脅しても、飄々とした笑顔と言葉でかわしてしまう。ようは【喰えない男】だ。不愉快で堪らない男でもある。
 
 
「で、今回は何の用や。仕事の話やないんなら、俺は帰る」
「つれないなぁ。少しぐらいはプライベートな話をしないかい? お互いの仲を深めるのも、大切なことだと思うよ」
「あんたの下らん話を聞いとる間に女三人は抱けるな」
 
 
 鼻先で嗤って、煙草を銜える。眼前の男から差し出されたライターに、躊躇いもなく顔ごと煙草を寄せる。
 
 
「真樹夫君が望むなら、今度は上等の娼婦を用意しておこうか。女性を抱く君の姿を見てみたいしね」
「気色悪いことぬかすなや。何で手前に女に突っ込んどる姿見られんにゃあかん」
 
 
 一笑と同時に吐き捨てる。煙草から紫煙が昇るのを見て、火から顔を離そうとした瞬間、下瞼に時岡の人差し指側面がピタリと押し当てられた。冷たく、僅かにざらついた指先の感触。背筋を走る悪寒に、咄嗟に時岡の手を振り払う。時岡が一瞬きょとんとした面をして、それから咽喉をくつくつと震わせるのが見えた。
 
 
「睫毛、が付いてたんだよ」
「触んな。男に触られるなんざ反吐が出る」
「真樹夫君は過敏で神経質だ。でも、君はそれを隠して、鷹揚で何事にも拘らないフリをしている。僕は君のそういうところが愛しくてね。まるで―――」
 
 
 時岡の言葉を遮るように、テーブルの上に置かれていたクリスタルの灰皿を蹴り飛ばす。時岡に向かって蹴ったつもりなのに、灰皿はマホガニーのテーブルを滑って床へと落ちた。クリスタルが弾ける音が甲高く響いて、一瞬の硝子音の洪水、それから静寂。周りを取り囲む男達からは無言の怒りが圧迫感として感じられるのに、目の前の男からは笑顔が消えない。獲物を前に舌なめずりするような表情が、気に食わない。
 
 
「―――まるで、子供の強がりのように見える。だから、可愛がりたくなる」
 
 
 テーブルの上に乗せられた真樹夫の足首を、男がゆったりとした手付きで掴む。乾いた男の掌の温度が、皮膚に纏わり付く気色悪さ。直ぐにでも怒鳴り散らしたい気持ちを押さえ付けて、真樹夫は唇の端に笑みを滲ませた。それこそ男の言う『子供の強がり』だとしても、恐れや怯えを見せることだけは自分の矜持が許さなかった。
 
 
「この足首、か細くて女性的だ。真樹夫君は間違いなく男性だけど、一部分だけ突出したように女性的になっている。君は本当は誰かに甘えたいんじゃないのかい?」
「―――ようけ俺のこと分析をしてくれたみたいやけど、好き勝手な妄想ぬかして、少しは恥ずかしいと思わんのんかあんた」
「ちっとも。私は君のことをずっと見てきたからね。この足首に痕を残したくって」
 
 
 足首を掴む男の掌に力が篭った。時岡の唇が近付いて、踝の少し上辺りに歯が立てられる。肉に歯が食い込む鋭い痛みに、真樹夫は眉を顰めた。咽喉を這い上がってくる呻き声を飲み込む。ギリギリと時岡の歯が薄い肉に埋没して、硬い足首の骨に当る。そうして、いとおしむように舌先で歯型を舐め上げる。赤く浮かび上がった歯型が、やけに鮮烈に眼球に映る。嗚呼、気色悪い。
 
 
「例え俺が誰かに甘えたがってようが、手前に甘えることだけはねぇよ」
 
 
 怒りの余り関西弁が消えてしまっている。それすら腹立たしい。短くなった煙草を、足首を掴む時岡の手の甲に押し付ける。ジュッという焼ける音と共に、肉が焦げる微かな臭いが紫煙と混じって鼻先を漂った。脂肪のない部分だったせいか、紫煙の臭いの方がずっと強い。
 
 時岡の表情は憎たらしいぐらい変わらない。しかし、爪先でその腕を蹴り飛ばせば、ようやく足首から時岡の手が離れた。その手の甲には紛れもない煙草の焦げ跡が残っている。黒く炭化した時岡の皮膚を眺めて、真樹夫は嗤った。
 
 
「ざまぁねぇなホモ野郎」
 
 
 この言葉が合図になった。剣呑な空気を発していた男達が「手前ェ!」「よくも組長に!」などと喚き上げながら真樹夫へと掴み掛かってくる。その余りに陳腐な台詞の数々に、真樹夫は驚く前に呆れた。こんなのお伽噺以下だ。
 
 男の一人が真樹夫の胸倉を掴む。目の下に切痕のある男だ。振り上げられた拳を眺めながら、手首を下から上へ突き上げる。男の顎を目掛けて掌と手首の境目辺りをぶちあてる。俗に言う掌底。呻き声を上げながら後方へと反り返った男の腹を目掛けて、次は中段蹴り。革靴越しに一瞬内臓の蠢きや反発を感じて、皮膚がカッと熱くなった。
 
 それでも、男は唇の端から泡を吹きながらも倒れない。確りと鍛えられている証拠だ。そうして、目は決して真樹夫から逸らされない。鍛えられている上に喧嘩馴れしている。感性方面では教育が一切なってないが、身体的な面ではなかなか良い教育をされているらしい。へぇと感心しながらも、容赦なく男の膝頭を真正面から思いっきり蹴り飛ばす。バキンという景気の良い音が部屋中に響き渡った。膝の皿が割れて、男の膝関節が真後ろに曲がる。綺麗に折れた、と自分自身に歓声を送りながら、男の劈くような絶叫を聞く。暫くは立てないだろう。
 
 今度は唇の端にピアスを入れた男が勇み足で近付いてくる。まだ若い。左脇のホルスターから黒光りする金属を抜き出し、そのまま硬い銃底でピアス男のコメカミを打ち付ける。ガッと鈍い音が鳴って、男のコメカミから血が弾けるのが見えた。頭蓋骨に皹ぐらい入ったかもしれない。ピアス男の眼球がぐるんと裏返って、床に倒れる。コメカミから滲み出た血がじわりと床に広がっている。
 
 背後から飛び掛ってきた男には、振り向き様に銃口を太股に押し付けて引き金を引いた。引き金に付けられた安全装置が強く引くことによってガチンと外れる感触、そうして腕の骨に痺れるような衝撃とくぐもった発砲音。男の太股から勢いよく噴き出た血が銃を握り締める掌にビシャリと掛かる。生ぬるい血よりも、自分の掌の方がずっと熱い。男の甲高い悲鳴を聞きながら、そのまま、硝煙を立ち上らせる銃口を時岡へと向け、声を上げる。
 
 
「動くな」
「それは、こっちの台詞だよ」
 
 
 思わず笑ってしまった。時岡の手に握り締められている銃、その銃口は真樹夫に向けられている。つまり、お互いに銃で狙っている状態で、これは何のカウボーイ映画なんだと思うと、堪らなく滑稽だった。
 
 
「撃ってみぃや。速攻で時岡組はうちの傘下から追ん出されて潰される。御前もこいつらも嬲り殺しや」
「撃たないよ。嬲り殺されるのは構わないけど、君が死ぬのは辛いからね。僕は真樹夫君に惚れ込んでいるんだ」
 
 
 飄々と吐き捨てる時岡は矢張り余裕だ。それとも余裕ぶっているだけなのか。真樹夫には区別が付かない。躁状態になったように心臓が高鳴って、気分が酷く高揚しているのが解る。命を掛けた状態だというのに、楽しいとすら思えてくる。
 
 
「じゃあ、銃下ろせや」
「銃を下ろせば、私を撃つだろう?」
「まぁな」
「それじゃあ、下ろせない」
「何や、ほんなら膠着状態やないか」
「そうでもないさ」
 
 
 時岡の視線が真樹夫の背後の扉へと注がれる。扉の向こう側から、ドタドタと階段を上る五月蝿い足音が聞こえてくる。畜生、時岡の部下でもやって来るのか、と思ったのは一瞬。扉が開かれる轟音と共に、
 
 
「真樹夫さんッ!」
 
 
 と、今にも泣き出しそうな馬鹿犬の叫び声が部屋中に響いた。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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