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03 噛む(下)

 
 肩越しに振り返れば、拳を赤く染めた馬鹿犬の姿があった。仁王立ちに立ったまま、肩を荒い呼吸に上下させている。おそらく見張りの男達を殴り飛ばして此処まで上がってきたのだろう。そうして、真樹夫が言った通りに此処まで走ってきたのだろう。歩けば三時間以上掛かる距離を必死になって、自分を追い掛けて。
 
 そう思った瞬間、真樹夫の胸に言いようのない『何か』が込み上げてきた。閉じていた胸の襞を押し広げるように、噴き出して来る。今まで感じた覚えのない、柔らかく暖かな感情だった。震えるようなその感情を、言い表す言葉を真樹夫は知らない。
 
 唇をゆっくりと開いて、わざと茶化すように言う。
 
 
「何や小山、ほんまに来たんか」
「まっ、真樹夫さんっ、じゅ、銃声、がッ…! う、うたれて、撃たれてないっスかッ!? 怪我してねぇっすか!? 大丈夫っすか?」
 
 
 ぶるぶると全身を震わせながら、小山は覚束無い足取りで近寄ってくる。
 
 
「あぁ、撃たれとらんし、怪我もしとらん。大丈夫や」
 
 
 小山が安堵の溜息を付いて、それから凍り付く。真樹夫に向けられた銃口を凝視して、真樹夫を押しのけるように銃口の前に立った。
 
 
「時岡組長、何してんっすか」
「何って、銃を向けているね」
 
 
 状況に似合わぬ和やかな笑みを浮かべる時岡を睨み付けて、小山は冷え冷えとした声を発した。銃口の暗闇を見据えて、決して目を逸らさない。
 
 
「銃を下ろしてください」
「真樹夫君に先に下ろしてもらいたいんだけど。私の方が先に下ろすと、撃たれるそうだから」
「あんたなんて撃たれりゃいい」
 
 
 飾ることを放棄した小山の言葉に、瞬間、ぱちくりと時岡が双眸を瞬かせて、それから弾けるような笑い声を上げる。
 
 
「君の気持ちも解るが、本音を出さないでくれ」
「あんたなんて死ねばいい」
 
 
 いっそ開き直ってしまったのか、小山が清々したように吐き捨てる。更に時岡の笑い声が溢れた。
 
 
「だが、私は死ぬつもりはない」
「そんなの俺に関係ない」
「そう言わず、君から真樹夫君に交渉してくれないか?」
「交渉する必要はない。あんたが銃を下ろす、その選択肢しかない」
「随分と横暴なことを言うものだね。私がこのまま引き金を引くっていう選択肢もあるんだよ」
「そうしたら、俺が死ぬだけ。そのまま俺を盾にして、真樹夫さんがあんたを撃てばいい」
「犠牲になるつもりかい?」
「犠牲だなんて大そうなもんか。当たり前の事だろう。俺が死ななくてどうすんだ」
 
 
 小山の台詞は余りにも潔かった。潔よすぎて向こう見ずな阿呆とすら評されても仕方なかった。時岡がぽかんと口を開き、そうして身体中の力を抜くような深い溜息を吐いた。そのまま銃をソファに放り投げて、両手を降参のポーズに上げる。首を緩く左右に振り、呆れ果てたように呟いた。
 
 
「何て馬鹿だ」
 
 
 その言葉に全てが詰まっていた。小山の背後から、くつくつと真樹夫の笑い声が零れる。
 
 
「ええ犬やろうが」
「そうだな、犬としては名犬だ。だが、人としては馬鹿過ぎる」
「そこが可愛えぇんやろうが。―――まぁ、ええわ。今度は下らん用事で呼び出すんやないで」
「撃たないのかい?」
「馬鹿のせいで撃つ気が失せた」
 
 
 呆気ない幕切れだった。下らない争いをしたものだと思う。バカップルの痴話喧嘩の方が幾らかマシだ。そんな事を思いながら、「帰るで」と顎で示す。状況を把握出来ていない馬鹿は、きょとんとした面で時岡と真樹夫を交互に見つめて、不思議そうに首を傾げた。
 
 
「真樹夫さん、撃たないんっすかぁ?」
「同じこと聞くなやボケ。時岡組はうちの傘下やで。うちの勢力、自分で減らしてどうするんや阿呆」
「だ、だって、真樹夫さんに銃向けたんっすよぉ」
「うっさいわ、ええけぇ、はよ歩け」
 
 
 だって、だって、と文句を漏らす小山の頭を一発張り飛ばして、そのまま床に転がる男達を跨いでドアへと引き摺って行く。背後から、密やかな時岡の声が届いた。
 
 
「真樹夫君」
「何や、まだ何かあるんか」
「幌田組が最近銃をアジア方面から大量に輸入しているんだが、君も気を付けた方が良いんじゃないかなと思ってね」
 
 
 気をつけた方が良いと言いながらも、時岡の顔は和やかに撓んでいた。幌田組という単語に、じりと脳髄のシナプスが揺れる。そうして、思い浮かぶのは泣き笑うような表情を浮かべる男の存在。
 
 
「―――真澄んとこの組か」
「真澄君は危ないね。私はあの子が一番怖いよ」
「あんたが怖い言うんは珍しいなぁ」
「愛されなかった子供は壊し方しか知らないからね」
 
 
 意味深な時岡の言葉に、心臓が僅かに跳ねる。愛さなかったのは誰なのか、と詰られているようにも聞こえた。被害妄想かもしれないが。
 
 探るように時岡を眺めて、それから背を向けた。「真樹夫君、またね」という余裕綽々な声が聞こえたが、もう返事は返さなかった。
 
 まだ不満げな小山を車内に押し込んで、ぶるぶると恐怖に震える運転手に行き先を告げる。ヤクザの運転手だというのに、随分と臆病な運転手だ。そういえば、前の運転手は先月撃たれて、今の運転手は外注の新しい奴だった、という事を思い出す。車が発進したのを見て、ゆっくりと息を付く。ようやくまともに呼吸が出来る。
 
 汗を拭おうと手を上げた瞬間、その手を思い詰めた目をした小山に掴まれた。
 
 
「真樹夫さん、怪我してるじゃないっすか!」
「はぁ?」
 
 
 怪我をした覚えなど欠片もなく、真樹夫は眉を顰めた。しかし、小山が掴んだ手は血に塗れていて、その手を見て、あぁと納得する。
 
 
「これは返り血や。俺の血やない」
「で、でもっ、怪我、してるかもしれないスから…!」
 
 
 焦ったように言いながら、小山は自分の服の裾で必死に真樹夫の手を拭ってくる。その切実な動作が鬱陶しく、そして痛々しく思えた。聞く耳持たずな小山の様子に、目を細めて溜息を吐く。
 
 
「怪我しとらんっつとるやろうが」
「な、なんでっ…」
 
 
 俯いたまま、消え入るような声で小山が呟く。何だと聞き返す前に、涙を滲ませた小山の眼球が真樹夫を見据えていた。潤みながらも、その眼球は紛れもない怒りを滲ませていた。真樹夫に対する純然たる怒りだ。
 
 
「なん、で、一人で行っちゃうんスか! だ、だから、一人は、危ないって、言ったのに! 何で、俺連れていってくれなかったんっすか! お、おれ、銃声聞こえて、真樹夫さんが撃たれたかもって、心臓止まりそうで、―――傍にいなくちゃ、盾にもなれねぇじゃないっすかぁ…」
 
 
 ぽろりと小山の目から涙が零れた。その涙を唖然とした心地で眺める。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、此処まで馬鹿だとは思わなかった。自分に心酔し切っている馬鹿犬は、盾になれない事を嘆いて泣くのだ。盾になる=死、だと解りながら、それでも盾になることを自分自身の存在意義だと思い込んでいる。その馬鹿さ加減が疎ましかった。だが、一方で酷く狂おしい感情が心臓を締め付けた。
 
 
「小山」
「真樹夫さんお願いです。俺を連れてって下さい。黙れって言われたら黙るっス。動くなって言われたら動かないっす。息すんなって言われたら、我慢できるとこまで我慢するっす。だから、真樹夫さんの傍にいさせて下さい」
「小山、御前少し黙れ」
「はい」
 
 
 切々と語っていた台詞を断ち切って、じっと小山を凝視する。小さくて吊り上がった一重、低い鼻、溶け掛けた歯。愛嬌のある顔立ちではあるが、可愛いとはいえない。ましてや美しさなんか欠片もない。シンナー狂いのヤンキー。ろくでもない人生を送ってきて、ゴミ以下の価値しかなかった男。
 
 それなのに、どうしてだろう―――愛しい。
 
 
「そういえば、俺怪我しとったわ」
 
 
 ふと思い出して口にすれば、途端小山の素っ頓狂な悲鳴があがった。
 
 
「ど、どこっすか!」
 
 
 ズボンの裾を捲り上げて、足首に残る歯型を見せる。小山は鼻梁に皺を寄せて、低く轟くような声で「畜生、あの野郎」と呟いた。噛み締めるような声音だった。
 
 
「すぐ手当てす――」
「舐めろ」
 
 
 言葉を遮り、命じる。言葉の意味を理解出来なかったのか、小山はゆっくりと首を傾げた。そうして、次の瞬間、顔を噴火させた。唇をぱくぱくと金魚のように戦慄かせて、泣き出しそうな顔で真樹夫を見つめる。
 
 
「な、なめっ…!」
「消毒が必要やろうが。ええけえ、舐めろ」
「消毒液の方が…っ」
「御前のツバで我慢したろう言うとんや。俺が舐めろ言うとんやけぇ、はよ舐めろやボケが」
 
 
 助けを求めるように左右を見渡す小山の仕草に苛立つ。御前を助けてやれるのは俺だけだろうが、という嫉妬にも似た自負が皮膚を尖らせる。小山の後頭部を鷲掴んで、そのまま顔面を歯型の残る足首に押し付ける。くぐもった呻き声が聞こえたが、離してやろうという気は毛頭起こらなかった。足首に唇を押し付けたまま、小山は潤んだ眼差しで真樹夫を見上げて来る。犬が飼い主に憐憫を乞うような哀れげな瞳。
 
 
「舐めろ」
 
 
 最後通告するように吐き出せば、小山の潤んだ瞳が伏せられた。唇が戦慄きながら開かれて、隙間から淡いピンク色をした舌先がちらりと見えた。視覚的に扇情されている気分になる。欲を煽られている。小山が意識的にやっている筈はないが、無意識ならもっと性質が悪い。
 
 血を滲ませる歯型に舌先がそっと触れて、それから遠慮がちな動作で舐め上げる。右から左へと歯型をなぞる様に、曲線を描きながら、ぺちゃりと犬のように。歯型に生温い唾液が染み込んでくるのが解る。それが奇妙なほど心地良い。
 
 そうして、これもある意味甘えているという事なのだろうかと、ふと思った。自分は小山に甘えているのか。慰められているのだろうか。こんな救いようのない馬鹿に。
 
 そう思うと、不意に笑いが込み上げてきた。内臓を誰かにこしょぐられているような密やかな笑い。眼下の紅潮した項を眺め、その項に噛み付くのを想像する。俺はこいつを犯すだろうか。こいつは受け容れるだろうか。夢想して、曖昧に首を左右に振る。例え、こいつを犯すことが出来ても、きっと自分は犯さない。犯せば、犬は犬ではなくなり、単なる性欲処理の道具になってしまう。まだ、犬の癒しを失くすのは惜しかった。
 
 鷲掴んだ頭の旋毛辺りを戯れに撫でる。小さく震える項が見えて、愛しさが胸に降り積もっていくのが解った。赤い耳朶に触れて、その耳元に淡く囁く。
 
 
「噛め」
 
 
 一瞬の躊躇いの後、左前歯が二本欠けた歯列が足首に食い込んだ。痺れるように、甘い。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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