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04 叫ぶ(上)

 
 ステンレスの台に金タワシを擦り付けたような女達の叫び声が癇に障って仕方ない。
 
 柔らかいソファに尻を埋めたまま、しな垂れかかる女に聞こえるように、わざと大きな溜息を吐き出す。女は露骨に不愉快な色を浮かべた後、すぐに取り繕うような笑顔を浮かべて「つまんない?」と少し冷めた声で尋ねて来た。
 
 
「つまんねぇとか、そういう事じゃなくて」
 
 
 自分が溜息を吐いたのに、そう尋ねられると途端に言いあぐねてしまう。小山は唇を尖らせて、押し黙った。横目で女を見遣ると、女はもう小山に凭れ掛かることなく、きちんと背筋を伸ばして座っている。甘えられる人間と甘えるべきでない人間を、確りと見極めている女だと思った。その潔さは心地よかった。シャツが大きく開けた胸元には「イルカちゃん」と書かれたプレートが留められている。暫くぼんやりとプレートを眺めていると、女はマニキュアの塗られた指先でプレートを摘んで、「キャンディちゃんっていう名前で呼ばれるよりかは良いでしょ?」と言って、淡く笑った。
 
 
「つまんないんじゃないなら、どうして?」
 
 
 先ほどのはしゃいだ声とは打って変わった淡々とした声で、イルカが問い掛ける。その言葉に、小山は憂鬱な視線で前方のソファを見遣った。
 
 テーブルを挟んだ向かい側のソファで、真樹夫が両脇にホステス達を侍らして笑っている。真樹夫が耳に口付けように何事か囁く度に、ホステス達が甲高い嬌声を張り上げる。真樹夫の甘ったるい視線、いつもより少し低い声、女達の柔らかく巻かれた髪を愛撫するように弄くる指先、それらを見る度に、言いようのない苛立ちが腹の底から込み上げて来る。だが、単なるお付きの自分が、その苛立ちをあからさまに表に出すことも、誰かにぶつけることも出来ない。それが余計に腹立たしかった。
 
 奥歯を噛み締めて、視線を逸らす。逸らした先に、イルカの眼差しがあった。斜め下から小山を見上げる瞳は、驚く程に澄んでいた。その瞳の奥に、透明な川が流れているようにも見えた。
 
 
「好きなの?」
 
 
 抑揚のないイルカの声が聞こえた瞬間、片頬が細かく痙攣した。まじまじとイルカを凝視して、ぎこちなく咽喉を上下させる。急激に口の粘膜が乾いて、カラカラになっていた。
 
 
「誰が」
「あなたが」
「誰を」
「彼をよ」
 
 
 イルカの指先が控えめに真樹夫を指差す。咄嗟に、その指を覆い隠すように、小山はイルカの掌を握り締めていた。イルカを見詰める自分の顔が情けなく歪んでいるのが判った。
 
 イルカは、自分の手を掴む小山の指先をひとしきり眺めて、それから平坦な声で呟いた。
 
 
「伝えないの? 好きなら、好きだって言っちゃえばいいじゃない」
 
 
 容易く物事を口にするイルカの唇が恨めしかった。眼光を尖らせて、イルカを睨み付ける。
 
 
「もう伝えてる」
「好きって言ったの? ちゃんと言った?」
 
 
 母のような甲斐甲斐しさで問い尋ねてくるイルカに反抗するように、視線を逸らしたまま小山は「言った」と拗ねた声で返した。
 
 向かい側のソファで一際大きな叫び声があがる。真樹夫の掌が女のふくよかな胸を掴んでいた。その光景に、引き裂かれる。心臓を鷲掴まれて、ギリギリと締め上げられているような感覚。眼球に透明な水の膜が滲むのを、必死になって堪える。泣き出すのは鬱陶しい。鬱陶しいのは真樹夫さんに嫌われる。そう解っているからこそ、絶対に泣く事だけはしたくなかった。
 
 そうして、自分の浅ましさに気付く。自分は、真樹夫さんとセックスしなくていいと言った。ペットでいいと思った。愛されたいだなんて、おこがましいと思った。それなのに、自分は今嫉妬している。『嫉妬』、その単語に皮膚が粟立つ。叫び出したい衝動に駆られる。
 
 
『真樹夫さん、その女に触らないで、喋りかけないで、優しくしないで、俺を見て!』
 
 
 脳味噌はそう喚いて泣き叫んで地団太を踏んでいるのに、凍えた唇は欠片も動かない。真樹夫さんの視線は、両隣の可愛くて綺麗な女達へと向けられたままで。その柔らかくウェーブを描く長い髪や、大きな瞳、赤くて肉厚な唇、張り出した腰骨、膨らんだ胸が羨ましくって、嫉ましくって、どうして、自分は女に生まれてこなかったんだろうと、そればかりが悔やしくって。
 
 
「なんで、俺、女に生まれてこなかったんだろ」
 
 
 無意識に零れ落ちた言葉は余りにも虚しかった。その虚しさに押し潰されそうになる。女であれば、せめて見目の良い男であれば、真樹夫さんから嘘でもいいから「愛してる」と言って貰えただろうか。こんな時に、何の遠慮もなく嫉妬することも出来たのだろうか。
 
 気付いたら、イルカの両腕が首に回っていた。
 
 
「可哀想」
 
 
 何が、可哀想なのか。誰が可哀想なのか。小山には、女の言葉はよく理解出来なかった。しかし、その言葉に含まれた痛ましさだけは皮膚を通って、臓腑まで沁み渡ってきた。
 
 だけど、憐れみは違う。これは憐れまれることじゃない。嘲られるべきことだ。だって、自分は真樹夫さんに、そういう風に愛されないことを納得してペットになった。それなのに、まだ浅ましく愛情を求める自分が馬鹿なのだ。身の程知らずなのだ。そう思って、小山は唇の端を歪ませた。皮肉気な表情を浮かべようとしたのに、結局情けなく眉を下げた表情になった。それが余計に苦しくて、女に抱き締められたまま、その淡い香りがする肩口に鼻先を埋める。
 
 途端、嬌声の間を轟くような低い声が鼓膜に響いた。
 
 
「惚れたんか、小山」
 
 
 真樹夫の視線が小山を刺していた。瞬息、その眼球の鈍い光に心臓がひやりと凍える。それから、思い出したように小山は狼狽し、困惑した。慌てて、イルカから離れる。真樹夫の眼差しがイルカのプレートに注がれる。「へぇ」と一息声を零したかと思うと、一転して真樹夫は笑顔になった。
 
 
「イルカ好きなん?」
 
 
 矛先を向けられたイルカは、一瞬戸惑うように瞳を揺らしたが、直ぐに甘ったるい笑顔を浮かべた。甘えるような、ちょっと馬鹿っぽい笑み。声も心なしか間延びした緊張感のないものになっている。
 
 
「あたしの苗字が蘇我なんです」
「蘇我って、蘇我入鹿のか?」
「そうです。だから、イルカて名前に」
「蘇我入鹿は切り殺された後、遺体を雨ん中に打ち捨てられたそうやね。イルカちゃんは、そんな事にならんとええんやけど」
 
 
 突拍子もない台詞で、そうして脅迫に近かった。悪質な戯れなのか、それとも本気なのか区別が付かない言葉。
 
 イルカがハッとしたように顔を強張らせる。それを見て、真樹夫は獲物を舌先で嬲るような嗤いを口角に滲ませた。頬肉を引き攣らせたまま、イルカが緊張した空気を解すように溌剌とした声を上げる。
 
 
「真樹夫さんったら、変なこと言わないで下さいよぉ」
「そこにおる犬、気に入ったん?」
 
 
 イルカの声に覆い被さるように、顎で小山を指しながら真樹夫が言った。言葉と一緒に滑るように向けられた真樹夫の視線に、小山はビクリと肩を震わせた。
 
 
「気に入ったって…」
 
 
 言いよどむイルカを見て、真樹夫がとろけるような笑みを浮かべて言った。
 
 
「気に入ったんなら、イルカちゃんにあげてもええよ」
 
 
 一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。きょとんとした眼差しで真樹夫を凝視して、小山は小首を傾げた。
 
 
「真樹夫さん?」
「御前は黙っとれ」
 
 
 叩き落とすような寒々とした声。そうして、真樹夫が本気でその言葉を言ったのだと気付いた瞬間、思い切り殴られたような衝撃が後頭部を走った。息が止まって、全身の筋肉が固まって、それなのに心臓だけが馬鹿みたいに早鐘を打っていた。急激な眩暈に、目の前がぼやけて、ぐらぐらと揺れる。息苦しい。苦しい、苦しい、理解出来ない。真樹夫さん、何を言ってるんですか。
 
 
「真樹夫さん」
 
 
 喘ぐように掠れた声が零れる。それを無視して、真樹夫は畳み掛ける様に喋り続ける。
 
 
「恋人でもヒモでも、家政婦でも奴隷でも、何でもしてええ。要らんかったらゴミ捨て場に捨てりゃええけぇ。生かそうが殺そうが、イルカちゃんの好きなようにしんさい。そいつやるわ」
 
 
 真樹夫の声には感情が篭っていない。酷く投げ遣りな声音で言い捨てると、そのままソファから立ち上がり、背を向けて歩き出した。反射的に、その背に向かって駆け出す。
 
 
―――いや、いやだ。やるって何ですか。俺を捨てるってことですか。もういらないんですか。欠片も必要ないんですか。いやだいやだ、捨てないで下さい。傍においてください。やめて、すてるなんて言わないで。他人にくれてやるだなんて、言わないで。真樹夫さん、真樹夫さん、俺はあなたの犬なんです。あなたの犬でいたいんです。真樹夫さん、
 
 
 遠ざかる背に手を伸ばそうとした瞬間、不意に腹に衝撃が走った。咽喉がヒュッと鳴って呼吸が止まる。内臓がぐちゃりと潰れるのを感じて、瞬間、腹部へと視線を落とせば、真樹夫の革靴の踵が下腹の肉にずっぽりと埋まっているのが見えた。
 
 
「ギ、ァッ!」
 
 
 咽喉から蛙が潰れたような声が一声零れて、そのまま瞬きする間もなく後方へと玩具のように吹っ飛んでいく。大理石で出来た床に背がぶち当たって、背骨が芯から軋むように痛んだ。腹を抱え、芋虫のように転がったまま、苦痛に足がわけもわからず藻掻いて床の上を滑る。内臓が苦痛にビクビクと痙攣して、寒気と一緒に嘔吐感が胃の底から込み上げて来る。咽喉まで這い上がってきた吐瀉物を必死で飲み込みながら、肩を震わせて喘ぐように呼吸を繰り返した。
 
 朦朧とした意識の端で、押し殺されたホステス達の悲鳴が聞こえた。見上げれば、イルカが大きな目を更に大きく見開いて小山を凝視している。そうして、真樹夫は――
 
 
「他の奴に尻尾振る犬はいらん」
 
 
 酷く冷めた眼差しで小山を見下ろす真樹夫には、表情がなかった。
 
 
「ま、まぎっ…」
「勘違いすんなや小山、俺は『俺の犬』は可愛がっても『他人の犬』は可愛がらん。他人に懐いた時点で御前は俺の犬やなくなった。やから要らん」
 
 
 息の根を止められる。血の気が失せて、全身の血液がなくなってしまった感覚。ぢんぢんと痛む内臓すら凍り付いて、吐き出す息も冷たくて凍えている。冬でもないのに、指先が悴んで、その関節が真っ白に色を失くしていた。
 
 
「もう帰ってくんな。帰ってきたら殺すけぇの」
 
 
 清々としたように吐き出す真樹夫の顔を凝視したまま、全身が拒否反応を起こす。嗚呼、自分は捨てられてしまったんだ、と頭の片隅では理解しているのに、身体はそれを拒絶するように足掻く。指先が床を引っ掻いて、背を向けた主人へと這いずり近付こうとする。
 
 
「まぎっ、おさ…!」
 
 
 最後まで言う事は出来なかった。振り返りざまに真樹夫の靴先が左頬肉を、突き上げるように蹴り飛ばした。鋭い衝撃と鮮烈な痛みに、瞼の裏で星が弾けた。極彩色の星が眼球の奥でチカチカと瞬く。ボギッと鈍い音がしたのは、きっと自分の奥歯が折れた音だろう。
 
 
「ガ…ッ!!」
 
 
 身体が床の上を二三回転がって、横向きに止まった。半開きになった唇の隙間から、大量の血液が溢れ出てくる。血液に混じって、大きめの歯も一つ転がり落ちてきた。左奥歯の一本だろう。
 
 目が眩むほどの痛みに呼吸すら止まりそうになる。蹴られた左頬だけでなく、顔面全部が千切れたのかと思うぐらい痛い。眼球が飛び出てしまいそうだ。背筋を大きく震わせて、浅い呼吸を必死で繰り返す。
 
 それでも、少し安堵した。真樹夫さんが蹴ったのが、コメカミじゃなくて頬で良かった。コメカミだったら意識を失っていたかもしれない。意識を失ったら、真樹夫さんに置いていかれても気付くことが出来ない。だから、頬で良かったと安堵した。
 
 
「小山さんっ!」
 
 
 いたいけな声が鼓膜に響く。朧な視線を声へと向ければ、青褪めたイルカが駆け寄ってくるのが見えた。それを見て、更に青褪めたのは自分だ。
 
 
「来ん゛、なァッ!」
 
 
 ぎくしゃくとした動きで、床に溜まった自分の血をイルカへと向かって払う。真っ赤な血が足元に散るのを見て、イルカが驚いたように足を止めた。信じられないものでも見るように、小山を見つめている。その瞳は裏切られた目だ。その目を見て、猛烈な罪悪感が胸中を覆うのが解った。だが、それでもイルカには近付かれては困る。イルカに介抱などされれば、真樹夫が更に怒り狂うのは解りきったことだった。犬の裏切りを二度も見させられて、真樹夫がイルカも小山も許すわけがない。
 
 不意に鼻で嗤う声が聞こえた。真樹夫が皮肉げな表情で、小山を見下ろしている。
 
 
「なんや、新しい飼い主に甘えんのんかぁ小山?」
「お゛れ、の、かいぬ゛、しは、まぎお゛ざん、です」
 
 
 たったそれだけの言葉を吐き出すだけでも、脳味噌に突き上げるような痛みが走る。蹴り飛ばされた頬が尋常じゃないくらい熱い。口から溢れ出す血は止まらず、咽喉に流れ込んでくる血が苦い。震える息を大きく吐き出して、真樹夫を見上げる。
 
 
「まぎお、さんの、いぬ゛で、す」
「前の飼い主に媚びるなボケが」
「まえ゛、じゃない゛で、す。ま゛ぎおさん、が、」
「俺は御前捨てたんやけぇ、もう飼い主ちゃうわ」
「すでるぐらいな゛ら、ごろしでください! ころ゛され゛た方がマシです!」
 
 
 叫んだ。形振り構わないがなり声で喚いて、真樹夫の眼球を見据えた。眼球が熱を孕んで、溶けてしまいそうだ。
 
 真樹夫は一瞬呆気に取られた顔をして、まじまじと小山を見た。それから数秒後引き付けじみた笑い声を上げた。高らかで屈託のない笑い声が天井まで響き渡る。暫く発作のような笑い声は続いて、真樹夫は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、口角に笑みを滲ませた。
 
 
「時々ほんまに殺したろうか思うわ、このボケ」
「ころ゛してください」
「御前の飼い主は誰や?」
「まぎおさんです」
「俺に捨てられるぐらいなら、殺された方がマシか?」
「ごろざれた方がマシです」
「また、歯ァ折られたゆうのになぁ」
 
 
 しゃがみ込んだ真樹夫が、血溜まりの中から赤く染まった歯を拾い上げる。歯には肉片が付いているのか、歯の断面からぐちゃりと潰れたピンク色が覗けた。それを見て、少しだけ笑う。腫れ上がり始めた頬肉のせいで、うまく笑えたかは判らないが。
 
 
「だいじたことじゃな゛い、ッス」
 
 
 そう言えた瞬間、身体から力が抜けた。捨てられるのに比べたら、奥歯を折られることも殺されることも大したことじゃない。
 
 真樹夫は「ふぅん」と曖昧な相槌を返し、僅かに思案するように眉間に皺を寄せていた。
 
 
「御前歩けるか?」
「は、い゛」
「なら、来い。着いて来れんのんやったら、置いてくけぇの」
 
 
 目が輝く。涙ぐみそうなぐらい嬉しい。堪らず、小山は小さく鼻を啜った。
 
 
「はい、着いでいきま゛す。まぎおさんに゛、ぜったい゛、死んでも゛、着いていぎます」
 
 
 その言葉に、「御前は俺の守護霊にでもなるつもりなんか」と言って、真樹夫が笑った。なれるものなら、守護霊だろうが地縛霊だろうがなりたいと思って、小山は深く頷いた。
 
 

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