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04 叫ぶ(下)

 
「痛いかぁ?」
 
 
 のた打ち回るような痛みを堪えて車に乗り込んだ後、蹴り飛ばされた頬に真樹夫が触れてきた。腫れ上がった頬を撫ぜられると、ピリピリとした痛みが眼球辺りにまで響いて来る。痛みに歪みそうになる顔を堪えて、小山は笑みを作った。
 
 
「だいじょぶ、っす」
「痛そうやけどなぁ」
 
 
 そう言いながら、真樹夫は薄笑いを滲ませて、小山の頬を人差し指で突っついて来る。その度に零れそうになる悲鳴を、小山は必死で噛み殺した。真樹夫が小山の傷で遊んでいるのは明白で。
 
 
「まっ、まきおさん゛!」
「イルカちゃん、可哀想やったなぁ」
 
 
 イルカの一言に、肩が跳ねる。自分を可哀想と憐れんだ女、裏切られた目をしていた女。来るなと叫んだのは自分だ。血を払いかけたのも自分だ。そうして、最後まで真樹夫を選び続けたのも自分だ。だが、ほうほうの体で店から出る時に見えたイルカの顔、その切ない眼差しは小山の心に罪悪感を生みつけた。結局『ごめんなさい』の一言も言えなかった。
 
 真樹夫の薄笑いは変わっていない。小山の反応を楽しむように、頬肉に人差し指を浅く深く埋め込んだりしている。
 
 
「なぁ、御前あの女に惚れとったんか?」
「惚れて、ない゛です」
「少しも?」
 
 
 しつこく問い返してくる真樹夫に向かって、コクコクと何度も頷く。真樹夫は納得したような納得していないような曖昧な表情で、「ふぅん」と再びどうでも良さげな相槌を返した。
 
 
「あのひと、俺゛のことかわい゛そうって、言ったん゛ッス」 
「憐れまれたんか?」
「たぶん…」
「阿呆か、何を憐れまれることがあるんや」
 
 
 そう言って、真樹夫は鼻で笑った。だけど、憐れまれた理由なんて言えるわけがなかった。唇を固く閉ざして、小山は押し黙った。
 
 
「そんで、初対面の女に憐れまれて、御前は甘ったれたんか? 甘えとうなったんか? 肩にすりすりして、なぁ」
 
 
 語尾の「なぁ」の部分に、僅かな真樹夫の怒気を感じた。小山は身体を強張らせて、息を呑んだ。まだ許された訳ではなかったのだ、とその瞬間理解して、震えた。
 
 
「俺の前で女に甘えるなんざ、どういうつもりだ手前、糞犬が」
 
 
 歯噛みするような声に怖気が走る。見開いた目で真樹夫を凝視する。真樹夫の唇は笑みを刻んでいるが、その目は笑っていない。仄暗い光を眼球に宿して、小山に対する怒りを示している。
 
 
「す、んません」
「すんませんやないやろうが、このカス犬。指詰めさせたろうか」
「指つめ゛て真樹夫さんが許してくれる゛なら、何本でもつめます」
「御前の汚い指なんざいるかボケ。主人以外に媚び諂う駄犬、お頭の足りんボケナス、ようもろくに見れん不細工な面引っ提げて女とイチャつけるな恥知らずのクズが」
 
 
 容赦のない真樹夫の罵詈雑言に、小山は身を竦めた。淡々とした声なのに、その声は針のように小山の心臓に突き刺さってくる。
 
 
「すんま゛せん、真樹夫さん、すん゛ませんすんません、すんません、おれ、何でもしま゛す。なんでもしますから、許してください゛、ごめんなさい」
「謝りゃすむ思うとんか低脳、手前の謝りなんざゴミ以下や。馬鹿犬なら犬らしく犬語で謝れやクズ」
「わ…わん」
「何言うとるか解らんわ糞阿呆が。ちゃんと言えやアホンダラ」
 
 
 理不尽な言葉の数々に、頭を抱えて、ひたすら「ごめんなさい、ごめんなさい」と阿呆のように繰り返す。まるで母親に謝る子供のようだ。何十回も何百回も繰り返して、咽喉も頬が痛くて「ごめんなさい」が「ごめんなひゃい」としか言えなくなった頃に、真樹夫の「顔上げろ」という声が聞こえた。
 
 
「小山、口開けろ」
 
 
 一瞬唇が戦慄いた。指の代りに舌でも切り落とされるのだろうか。そう思うと、全身が見っとも無く震え出しそうだった。それでも、許されないよりかは、きっとよっぽどマシで。凍り付いた唇を、ぎこちなく開く。途端、口の中に何か放り込まれた。舌先で探ると、それは指先大のもので、表面はザラついていた。
 
 
「御前ん歯や。飲め」
 
 
 折れた奥歯を入れられたらしい。冷えた歯が口内の温度で次第に温まっていくのを感じながら、小山はそれを飲み込んだ。咽喉に僅かに引っ掛かって、噎せそうになるのを堪える。完全に嚥下し切っても、食道の辺りに異物感が残っていた。
 
 
「飲み゛、ました」
「ほんまに飲んだんか?」
 
 
 はい、と返事を返そうと口を開いた瞬間、噛み付くような勢いで真樹夫の唇が重なっていた。一瞬、頭の中が真っ白になる。しかし、潤った舌が口腔に差し込まれた瞬間、小山は恐慌した。真樹夫の唇から逃れようと、顔を捩じらせる。唇の間にできた僅かな隙間から、喘ぐように声を吐き出す。
 
 
「な、なんっ…!?」
「うっさい、口ん中に歯ァ隠しとらんか調べとるんや。御前は黙っとれ」
 
 
「畜生、錆び臭ぇ」と苛立った声で返されて、『ちゃんと飲みました!』と反論するだけの気力もなくなった。再び唇が重なり、性急な動作で舌が差し込まれる。口内に歯が残っていないか探るように、奥歯の奥から舌の裏まで、真樹夫のぬめった舌が蛇のように口内で這い回る。時折戯れるように、抜けた奥歯の窪みを舌先でぐりぐりと抉られると、顎骨にまで鋭い痛みが走って両足が跳ねた。
 
 
「ふ、はッ…」
 
 
 息継ぎの方法すら解らない。頭の中がもやでもかかったように虚ろで、心臓だけ馬鹿みたいに早くて、弾けそうで、止まりそうで、死んでしまいそうで、くらくらする―――
 
 舌先でザラザラとした舌の表面を弄られると、もう堪らなかった。足の指先まで痙攣して、ビクビクと震えた。柔らかな舌の感触が堪らなく気持ちよくて、遠慮がちに緩く舌を絡ませてみても、真樹夫は何も言わなかった。一度それが許されると分ると、もう止まらなかった。一転して、夢中で舌を絡めた。粘膜をこすり合わせて、相手の口の中にまで潜り込んで無我夢中で唾液を飲み込んだ。歓喜していた。熱狂していた。今キスしているのが、自分の恋焦がれた男だと思うと、全身が焼け爛れそうなぐらい興奮した。
 
 キスの合間に、掠れた真樹夫の声が耳元に囁かれて、それに飽きもせず発情した。
 
 
「ええか、御前は俺の犬なんや。勝手に他の奴に甘えてみろ、御前の手足もぎ取ってブチ殺したる。解ったか?」
 
 
 問い掛けられる言葉に、力の抜けた頷きを返す。すると、真樹夫が驚くほど柔らかな笑みを浮かべて、言った。
 
 
「ええ子や」
 
 
 脳味噌が沸騰した。全身が熱くなって、指先まで戦慄き震えた。
 
 それなのに、重なる唇に、心臓が引き千切れそうなほど痛んだ。胸を掻き毟りたいぐらいの愛しさと苦しみに身悶え、心臓が悲鳴を上げる。
 
 
『真樹夫さん、真樹夫さん、好きです、好きでたまらない、愛してるんです、愛してる、死にたいぐらい愛してるんです』
 
 
 心臓はそう叫んでいるのに、言葉には出来ない。ペットには、主人に愛してるだなんていう権利も資格もありはしない。唇を小さく戦慄かせて、一生口にすることの出来ない叫びを飲み込む。
 
 『可哀想』と呟かれたイルカの言葉が心臓に突き刺さって、きっと一生抜けない。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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