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06 ひっぱる(上)

 
 廊下の影から、不意に腕を引っ張られた。
 
 乱雑な動きで背を壁へと押し付けられて、咽喉から鈍い呻き声が漏れる。声を抑えるように小山の口を掌で覆って、男は、しーっとわざとらしい声をあげた。にやついた無精髭面を、細めた目でねめつける。
 
 
「こやまぁん、お願いがあるんだけどさぁ」
「これがお願いがある人に対する行動っすかね」
 
 
 男の甘ったるい声音を跳ね除ける。唇を押さえる男の掌を、一息に叩き落せば、男はアタタと過剰に痛がった声を上げて、小山をいたずらっ子のような眼差しで見つめた。
 
 男は、溝尾と言う。小山より五年前に吾妻組に入り、真樹夫の下についた。いうなれば小山の兄貴分だ。本来ならば、手を叩き落すだなんてとんでもない。兄貴分として敬わなければならない存在だ。しかし、溝尾は兄貴分らしい威厳を到底持ち合わせていなかった。ヤクザだというのに然程その自覚は感じられず、その場限りの調子のよさと甘っちょろさだけが鼻に付く。その持ち前のゴマすり能力と要領のよさで上からは重宝されているが、小山は好きではない。
 
 以前、溝尾と他の兄貴分が喋っているのを偶然聞いた。内容はよく分からなかったが、一つだけハッキリと耳に届いた言葉がある。
 
 
 『真樹夫さんはさぁ、色魔だよ色魔』
 
 
 その時は、色魔の意味が分からなかった。だが、その意味を知ってから、溝尾は小山にとって嫌悪する対象でしかなくなった。自分の親分の事を、真樹夫さんの事を、いとも簡単に貶してしまえる神経が小山には理解不能だった。溝尾にとっては、他愛もない世間話だったのかもしれない。しかし、小山はその他愛なさすら許せなかった。
 
 いや、もしかしたら溝尾の方が普通なのかもしれない。いかに自分の親分とはいえ、小山ほど傾倒している部下の方が珍しいだろう。金魚の糞のように付きまとったり、自分の命を捧げたりする事の方が狂気の沙汰なのかもしれない。ましてや心底惚れ込むなど、ありえない。ありえてはならない。
 
 溝尾を横目でねめつけながら、小山は薄く奥歯を噛み締める。そうだ、本気になってはいけない。だけど、本気になってしまった。心の底から、自分は真樹夫さんに惚れ込んでいる。死んでしまいたいほど、傾倒し切っている。だから、侮辱した溝尾を許せない。
 
 しなやかな仕草で、溝尾の腕が肩に回ってくる。至近距離から顔を見つめられて、不快感に顔が歪む。
 
  
「そんな怖い顔すんなよぅ。小山の悪いとこは、そうやって直ぐ顔に出るとこだよねぇ」
「何の用っすか。用がねぇなら、放してもらえないっすか」
「用がなけりゃ、引き止めたりしないでしょー」
 
 
 懐かない犬を宥めるように、溝尾が頬を摺り寄せてくる。無精髭のザラザラとした感触が痛くて、両手で胸を押し返す。しかし、それに反発するように肩を引き寄せる力は強くなった。
 
 
「ちょっとさ、お前に来て欲しいんだけど」
「なんで行かなくちゃなんねぇっすか」
「うん、まぁ、ねぇ」
 
 
 歯切れの悪いまま、小山の肩を抱いて溝尾は歩き出した。その強引な連れ方に、思わず閉口する。反発心ばかりが腹の底から競り上がって来る。それを感じ取ったのか、溝尾は誤魔化すように笑い声を上げた。
 
 
「俺らもさぁ、ちょっとどうしたらいいか扱いに困ってんのよ。出来れば、お前に子守りして欲しいとか思ってるわけ。お前ってさぁ、犬っぽいとかでやたら女受けいいじゃん」
「何言ってんのか、よくわかんねぇんっすけど。子守りとか女受けとか」
「来れば分かるさぁ」
 
 
 肩を抱く力が強くなる。殆ど引き摺られるように連れて行かれれば、そこは組員の居住区代わりの一角だった。
 
 組員達の談話室でもある大部屋の襖を開けば、ぐるりと円を描いて数人の男達が座っているのが見えた。その真ん中には、茶碗とサイコロが見える。どうやら仲間内での博打中だったらしい。
 
 部屋に入ってきた溝尾と小山へと、一斉に視線が向けられる。その一同の表情に、小山は唖然とした。普段は、厳つい面をさらして、誰彼かまわず威嚇しているような男達が今は酷く情けない、まるで助けを求めるような表情を浮かべている。
 
 
「小山、来たか」
「どうしたんっすか、桧垣さん」
 
 
 ほっとした声をあげて、太めな腹を揺らしながら小柄な中年男が近付いてくる。桧垣は組員の中でも古株で、何処にでも居そうな大人しげな面をしている。実際、普段の桧垣は大人しく、声を荒げることも滅多にない。その面が中身とそぐわないと気付いたのは、対抗組織との会合の時で、その時小山は始めて桧垣が鬼の形相をするのを見た。若僧の咥内に銃口をぶち込んで酷薄に哂う姿は、まさに鬼だ。しかし、普段は信頼できる兄分なのは間違いない。その桧垣が今は焦燥し、頭を抱えている。
 
 
「どうしたもねぇよ。どうにかしてくれ」
「一体なんなんすか」
「―――お姫様が来てんだよ」
 
 
 嘆息混じりに小声で呟かれる。桧垣のうんざりした視線を追っていけば、男達の円の中にひらりと純白のレースが見えた。伏せられていた長い睫がふるりと震えて、ゆっくりと上げられる。小山を見つめて、淡い桃色の唇が嬉しそうに湾曲した。
 
 
「わんちゃん」
「奈美さん」
 
 
 ふわり、とスカートのレースが軽やかに揺らめく。白いドレスを着た少女が軽やかに駆け寄って、両腕を小山の首に絡ませた。
 
 
「うれしいっ、わんちゃん。会いたかったぁ」
「奈美さん、何でこんなとこにいるんっすか」
 
 
 奈美は、稚拙な仕草で首を傾げて、それから唇にふわりと微笑みを浮かべた。その微笑みに一瞬視線を奪われる。
 
 奈美は、美しい少女だ。柔らかくカールした色素の薄い髪、大きな瞳、華奢な手足、柔らかな関節、頭のてっぺんからつま先まで、一部の隙もなく愛らしい。可愛らしい仕草も、甘えるような眼差しも、小さな子供を連想させて無条件で庇護欲をそそられる。だが、小山は奈美が苦手だ。それでも、会えば愛想笑いを浮かべる。
 
 
「今日は、パパについて来たの。何だか真樹夫ちゃんに話があるみたいでね。ナミは、ひまだから此処で待たせてもらおうかなぁって思って」
 
 
 奈美の父親は、吾妻組傘下の中でも飛び抜けて強大な組、茅野組の組長だ。真樹夫の父親である真之介の左腕とも呼ばれる存在だった。小山も一度だけ見たことがあるが、小柄ながらも横幅の広い身体、しかし太っているというよりも筋肉が極限まで凝縮されたようなイメージを受けた。論理的かつ非情な人間だと言うが、愛娘の奈美に対してはめっぽう甘く、親バカの称号を嬉々として受け入れているとも聞いた。一度新人組員が何も知らず奈美を口説いた次の日、その組員の歯や爪は一本、一枚も残さず全て消えていた。その箱入り娘を目の前にして、誰が平常でいられるのだろうか。下手をすれば自分の首が飛ぶかもしれないのに。
 
 
「こんなとこで待つって、あんまよくねぇと思うッスよ」
 
 
 周囲で様子をうかがう組員達を見渡して、小山は小さく呟く。あまりよくない、というのは奈美の事ではなく、組員達のことだ。桧垣や、他の組員達がそわそわと身を捩じらせている。場にそぐわぬ奈美の存在を、どう扱って良いのかわからず、途方に暮れているようにも見えた。このままでは組員達の胃にことごとく穴が開いてしまう。溝尾だけは、飄々とした面でいるが。
 
 
「そうかなぁ、みんなナミに優しくしてくれるよ。わんちゃんにも会えたし」
 
 
 小山の言葉の真意を理解せず、ね、と奈美は無邪気に笑った。それから、短い小山の髪をよしよしと撫ぜる。小山は、当惑に顔を歪ませた。奈美は、いつもこうだ。初めて会った時から、小山をわんちゃんと呼び、頭を撫でたり、抱き付いたりと、丸っきり犬のように扱う。組員の中でも、何故だか小山を一等気に入ってくれていて、可愛がってはくれる。だが、小山は好んで近付きたいとは思わない。それは、
 
 
「真樹夫ちゃんにも早く会いたいなぁ。ねぇ、わんちゃん、ナミの服変じゃない? 汚れてない? リップ濃くない? ナミ、真樹夫ちゃんに会うときは一番かわいいナミじゃなきゃイヤっ」
 
 
 唇を尖らせてナミが問い掛けてくる。そのピンク色のグロスがのせられた、てらてらと濡れ光る唇を見て―――吐き気がした。唇が僅かに震える。痙攣じみた動きをして、それからようやく引き攣った笑みを滲ませた。
 
 
「―――今日も奈美さんは一等かわいいっす」
 
 
 言葉が口から出した瞬間から、腐っていく。羨望と嫉妬で、唇が咽喉が爛れ落ちる。心臓がずぐりと鈍い痛みを発して、その重さを増す。二日酔いにも似たムカつきが胃の腑からこみ上げて、咽喉元を這いずり回る。噛み締める言葉は、自分の醜さを表すものだ。
 
 奈美さんは可愛い。奈美さんは女の子。奈美さんは愛される。奈美さんは―――
 
 
「何たって奈美さんは、真樹夫さんの可愛い婚約者ですからねぇ」
 
 
 粘着くような溝尾のゴマすり声に、ひくりと咽喉が上下する。奈美が両手で自身の頬を挟み込んで、「婚約者って言われると、なんだか恥ずかしい」と照れたように笑う。咄嗟、身体の内側で何かの衝動がはちきれそうな勢いで膨れ上がるのを小山は感じた。その微笑みを張り飛ばしてやりたい。愛らしい顔を切り裂いて、二度と見れない顔にしてやりたい。膨張する醜悪な感情とは反比例に、体温がすっと下がっていく。
 
 
―――奈美さんは、真樹夫さんの婚約者。
 
 
 知っていた、ずっと前から。小山が吾妻組に入った当初から、真樹夫と奈美が婚約者なのは公然の事実だった。二十九歳の真樹夫と、十九歳の奈美、年の差はあっても、奈美は真樹夫に対して恋情を抱いている。真樹夫も奈美を憎からず思っている―――いつか二人は結婚する。
 
 冷や汗が額に滲むのを感じた。指先が凍えて、奥歯がカチリと歯の根を響かせる。ぐらりと世界が揺れる。重く暗いカーテンで、世界が閉ざされる。絶望的な喪失感。張り裂けそうな嫉妬。殺意に近い憎悪。真樹夫に対する独占欲、余りあるほどの愛情。こんなのはペットが感じていい感情ではない。
 
 そもそも真樹夫には奈美がいることを、小山はずっと知っていた。昔はお似合いな二人だなと思いすらした。だからこそ、自分はペットで居続けることを選んでいたのに、今更改めてこんな風に奈美を妬むのはおかしい。お門違いにも程がある。むしろ自分の飼い主の婚約者だとして、懐き、大事にしなくてはいけないはずだ。奈美のことだって、本来は憎からず思っているのだから。頭ではそう解っても、心が付いていかない。まるで腐った女のような心だ。自分の心は腐ってしまった。
 
 
「真樹夫さんと織田組長がお話されてるって事は、式の日取りでも決まりそうなんですかね?」
 
 
 溝尾がにこにこと嘘臭い笑みを浮かべて、奈美に喋りかける。
 
 
「どうなのかなぁ。でも、ナミは大学を卒業したら、すぐにでも真樹夫ちゃんのところにお嫁に行きたいなっ。パパはすっごく寂しがると思うけど」
 
 
 大学を卒業したらという事は、奈美は短大生だから来年の三月には卒業する。もう一年もない。一年後には、真樹夫は奈美と結婚している。自分は、自分は一体その時どうしているのだろうか。真樹夫さんと奈美さんのペットになって、今と同じようにかしずいている? それとも嫉妬に耐え切れずに、吾妻組を抜けている? 一年後の自分がまったく想像できない。ただ、単なるペットではもう居られない。真樹夫の舌を、自分は知った。真樹夫の性器の感触を、その硬さを感じて、欲情する事を知った。もう二人を祝福できるペットには戻れない。もう元には戻らない。じゃあ、自分はどうなる。真樹夫なしで自分はどうやって生きていけばいい。
 
 
「今日は真樹夫ちゃんとご飯いっしょに食べにいくの。わんちゃんも居てくれたら、ナミすっごくうれしいんだけどなぁ。わんちゃんも一緒に行こ? ね?」
 
 
 小山の感情も知らず、奈美が笑いかける。強請るように小山の指先を掴んで、緩く引っ張る。途端、奈美は「きゃっ」と短い悲鳴をあげた。
 
 
「わんちゃん、手冷たいよ。寒いの?」
 
 
 問い掛けながら、奈美は小山の氷のような右手を掴み、小さな両手で包み込んでくる。両手の隙間から、息を吐き掛けて、暖めようとする。奈美の掌の温もりに、小山の心臓は引き裂かれた。奈美の優しさに、思いやりに、打ち砕かれる。自分はそんな事をされる価値はないんだと、叫びたい。自分は、貴方を妬み、憎んでいる。真樹夫さんを手に入れる貴方をいっそ殺してしまいたいと思っている。優しくしないで、お願い、おねがい、優しくしないで下さい、いっそ俺を罵って、俺を消して、
 
 
「すこし温かくなったかなぁ?」
 
 
 奈美がほんわりと微笑む。その笑顔を見返して、小山は笑おうとした。だが、頬肉が二三度引き攣っただけで笑みにはならなかった。その代わり、眼球が潤むのを感じた。あ、と驚きの声をあげる暇もなく、ぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。後はもう止まらなかった。ぼろぼろと涙だけが零れて、何一つ言葉にならない。
 
 驚いた奈美の顔、「わんちゃん、どうしたの?」と問い掛けてくる声、右手を揺さぶる両手、それら全てが悲しい。自分の惨めさを実感する。叶うはずも、許されるはずもない愛情を抱いている自分が惨めで堪らなかった。
 
 しゃくり上げながら、せめてもとばかりにペコペコと小さく頭を下げる。ごめんなさい、ごめんなさい、自分は今貴方に対して、とても汚い感情を抱いていました。貴方は何も悪くない。悪いのは、自分なんです。真樹夫さんに恋した自分が罪悪なんです。ごめんなさい、すいません、許して下さい。しかし、それらを口に出すことは一生できない。
 
 
「小山、どうしたんだ。お前、体調が悪いんか?」
 
 
 桧垣が心配そうに尋ねてくる。周りにいる組員達が妙なものを見る目つきで、小山を眺めているのがわかる。横目で桧垣を見遣って、こくりと頷く。鼻水を啜って、ようやく掠れた声を漏らす。
 
 
「…すん゛ません、昨日から゛、調子、悪ぐって」
「なら、なんで言わねぇんだお前は。すいません、奈美さん、移ったらいけないですから」
 
 
 そう言いながら、桧垣が奈美の指先を、小山の右手から解いていく。奈美の瞳は微かに潤んでいる。その眼差しに、何度だって打ちのめされる。右手で心臓の辺りを鷲掴んで、ふらりと後ずさる。
 
 
「小山、お前は部屋に下がれ。後の仕事は俺らがやっておくから、お前は寝てろ」
「は、い゛、すんません゛、すん゛ません」
 
  
 小声で謝罪の言葉を繰り返して、ふらふらと踵を返す。背後から「わんちゃん、またね」という奈美の声が聞こえたが、曖昧に礼をすることしか出来なかった。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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