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06 ひっぱる(下)

 
 既に薄暗くなり始めている廊下を、覚束ない足取りで歩く。涙は、相変わらず止まらない。『完全なる敗北』だと思った。いや違う。初めから勝負になんかなっていなかった。宝石とゴミを比べる奴がどこにいる。女の子な奈美、男な自分、可愛い奈美、不細工な自分、優しい奈美、汚い自分、真樹夫が選ぶのがどちらかなんて解り切ってる事。それなのに今更悲しい。苦しい。心臓が爆発しそうなぐらい痛い。
 
 自室に戻って、布団の中に潜り込む。背中を丸めて、ヒッ、ヒッと咽喉を鳴らす。
 
 奈美さんは真樹夫さんと結婚する。キスをする。セックスだってする。子供が出来て、幸せになる。それだけの価値がある。自分は、真樹夫さんに恋をした。告白をして、恋することを許してもらえた。キスだってした。セックスは、お願いすればしてもらえるかもしれない。真樹夫さんは優しいから。だけど、したくない。セックスをすれば、自分はペットではなく女になってしまう。性欲処理の女は、いつか飽きられて捨てられる。そういう光景を、自分は何度も見てきた。どんなに女が縋り付こうが、一度寝てしまえば真樹夫さんは無情にその女を切り捨ててきた。自分はそうなりたくない。だから、ペットのままでいたい。だけど、ペットのままではいられない。だって、自分は真樹夫さんを愛しているから。世界中の誰よりも一番、真樹夫さんを愛している。ペットでいたいのに、ペットでいられない。何て矛盾だ。何て我侭だ。何て自己中心的な、馬鹿げた、愚かな、犬だろう。
 
 
「―――まきお゛、さん」
 
 
 押し殺した声で囁く。込み上げて来る愛おしさは、一体何なんだろう。報われる事のない愛情は、一体何処に行くんだろう。いつか忘れ去られて、消えていくのだろうか。なら今消えて欲しい。今すぐ自分ごと消し去って欲しい。消えて、消えて、お願い、消えて、
 
 
「小山は、馬鹿だなぁ」
 
 
 不意に、頭上から声が落ちてきた。布団の中で、ひくりと震える。布団から顔を出せば、見えたのは憎たらしい男の顔だ。溝尾がにやにやと口元を歪めて、小山を見下ろしていた。
 
 
「何の゛用っす゛か」
「敵わないなんて解り切ったことじゃんか。それを今更傷付いて、めそめそ泣いたりするなんて馬鹿にも程があるだろ」
「何のごと、言ってる゛んすか」
「真樹夫さんに恋したって、どうにもなんねぇって言ってんの」
 
 
 息を呑んだ。驚愕の眼差しをする小山を見て、溝尾が可笑しげに肩を揺らす。
 
 
「気付かれないとでも思ってたのか? お前は相変わらずお目出度い頭してるよなぁ」
「なんで…」
「あんだけ物欲しそうな目で真樹夫さん見ておいて、気付かれねぇわけないだろうがよ。雌犬みてぇな面しやがって」
 
 
 雌犬、その単語が聞こえた瞬間、カッと全身が熱くなった。下唇を噛み締めて、小刻みに震える。周りから見て、自分はまるで雌犬のように真樹夫さんを欲しがっていたのだろうか。涎を垂らして、浅ましく。そう思うと、羞恥に全身が震えた。
 
 
「ま、気付いてる奴はそんなにいないかもしんねぇけど」
「な、なん゛なんすか。おれ、のこと、馬鹿にしに来たんすか」
「いいや、慰めに来た」
 
 
 今までの言葉とは裏腹な事を言って、溝尾は小山の前にしゃがみ込んだ。胡乱気に見遣る小山を眺めて、溝尾は不意にふっと息を吐き出すように笑った。
 
 
「目ぇ真っ赤じゃねぇか。明日腫れるぞ」
「…溝尾ざんには、関係ね゛ぇっす」
「お前はいつまで経っても俺に懐かないなぁ。真樹夫さんにしか懐かねぇなんて、忠犬ハチ公かよ」
 
 
 笑いながら、気安い仕草で小山の髪の毛をわしゃわしゃと掻き乱す。その馴れ馴れしさに、小山は閉口した。鼻梁に皺を寄せて、その手を払い除ける。
 
 
「馬鹿にしにぎたんなら、出てってください゛! 俺はあんたのことなんか、嫌いだ!」
 
 
 喚いた瞬間、再び涙が滝のように溢れ出してきた。こんな風に簡単に人を嫌うことだって出来るのに、どうしてそれが出来ないんだろう。悲しくて堪らなくて、布団に顔を埋めて、きらい、きらい、とうわ言のように繰り返す。何よりも汚い自分が一番嫌いだ。
 
 
「そっかぁ。俺は、お前のこと好きだけどなぁ」
 
 
 暢気な声が後頭部の上から降って来る。布団の上から、背中を緩く上下に撫でられて、反射のように咽喉がしゃくり上げる。
 
 
「お前が頑張ってんの、よく解るよ。真樹夫さんに拾われてきた初めの頃は、脳味噌足りねぇ阿呆が来たって思ったけどさぁ、お前馬鹿正直だから、憎めなくってよ」
 
 
 しとしとと小雨のように溝尾の声が落ちてくる。背中を震わせたまま、小山はその声を静かに聴いた。
 
 
「いつの間にか、お前は真樹夫さんに恋してて、でも、そんなん考えなくっても無駄だって判るじゃんよ。報われるわけねぇじゃん。真樹夫さんには奈美さんが居るし、そもそもヤクザの幹部と下っ端が結ばれるなんてあり得ない。しかも、男同士なんて特にな。真樹夫さんは跡継ぎを残さなきゃなんねぇんだから」
 
 
 身体を真っ二つに引き裂かれるような感覚。布団を掴む指先に力が篭る。苦しくて息が上手くできない。全身を強張らせて、それから弛緩させて、腹へとそっと指先を伸ばす。跡継ぎ、子供、男である小山にはどう足掻いても産むことはできない。悔しさに涙がまた零れる。
 
 
「解ったか? お前がどれだけ真樹夫さんを愛してたって、一生報われることはねぇんだ。だから、もう頑張んな。俺はお前が頑張ってるのを見ると、無性に辛い。苛付きもする。お前は、頑張らなくていいんだ」
 
 
 頑張らなくてもいいと溝尾は言う。だが、小山は頑張ったつもりなど一度もない。勝手に小山が真樹夫に恋をして、勝手に傷付いたりしているだけなのだ。これは全て自業自得な事だ。当たり前の報いだ。一生報われる事がないなら、自分はもう諦めてしまえばいいのだろうか。真樹夫さんに対する愛情を捨てて、普通の女の子に恋して、無難な愛情の容に自分を収めればいいのだろうか。
 
 でも―――、と咽喉の奥で呟く。布団から上半身を起こして、しゃくり上げながら溝尾を見つめる。
 
 
「でも、おれ゛は、真樹夫さんのことを世界で一番すきだ。世界中のだれよりも、一番、いちばん、おれが、まきおさんのことを好きだって、きっとおもってる。それなのに、それでも、だめなのか? 勝てなくて、おれは報われないの? おれは、真樹夫さんのこと、あきらめなくちゃいけないの? こんなに、こんなに、すきなのに、だいすきなのに――」
 
 
 浅ましい言葉が溢れてくる。悔しかった。悲しくて、苦しかった。諦めたくないのに、諦めるしか方法がない。報われなくてもいいなんて、そんな事はきっと自分は言えない。真樹夫さんに好かれたい。真樹夫さんに愛されたい。真樹夫さんの一番近い場所に居たい。何て強欲、傲慢さ。
 
 
「おれ゛は、薄汚い。勝てるわけもないのに、なみさんに嫉妬して、なみさんが、死ねばいいって思った。顔を切り裂いて、やりたいっておもった。なみさんは、やさしい。おれは心でもまけた。はじめから勝負になんかならない。おれは、きたない。きたない。真樹夫さんをすきでいる資格なんてない。でも、すきだ、すきだ…」
「小山、もうやめろ」
「―――あいしてるのに」
 
 
 口にした瞬間、心が砕けた。蹲って、ヴぅ、と声を上げる。愛する資格もない。けど、愛してる。この罪をどう償えばいいんだろうか。検討も付かず、ただひたすら咽び泣くしかなかった。溝尾の掌がそっと肩に置かれる。
 
 
「小山、もう諦めろ。これ以上踏み込むと、お前、もう後には引けなくなるぞ」
「後に、ひけない?」
「追い詰められて、崖からダイブする羽目になる。下はコンクリートだ。打ち付けられて、全身の骨が粉々に砕けて、お前は死ぬ。終る」
 
 
 簡潔かつ救いのない溝尾の言葉を聞きながら、ぼんやりと考える。まだ後に引くことは出来るんだろうか。小山は、自分の後ろをそっと振り返ってみた。その瞬間、余りの恐怖に息が止まった。真っ暗だ。後ろには何もなかった。
 
 
「―――後なんてない」
「小山」
 
 
 微か焦燥を滲ませた声で、名前を呼ばれる。宥めるように肩を揺さぶる溝尾の腕を掴んで、小山は呆然と呟いた。
 
 
「おれには何もない。何もなかった。ゴミ捨て場から俺を拾ってくれたのは真樹夫さんだ。ゴミ以下の価値もなかった俺に価値をくれたのは真樹夫さんだ。一生報われなくても、奈美さんのものになっても、諦められない。だって、おれには真樹夫さん以外なにもない。なんにもない」
 
 
 周囲には深淵が広がっていた。自分の空虚さを思い知らされたようだった。溝尾の腕を掴む指先が小刻みに震える。報われない。諦められない。前も後ろも深い闇しかなかった。真樹夫さん以外、自分には何もなかった。
 
 
「泣くなよ、小山」
「泣いてねぇっす…」
「泣いてるよ」
 
 
 溝尾の掌が頬に当てられる。熱せられた頬には、確かに水の感触があった。苦渋に滲んだ表情を浮かべて、溝尾が吐き捨てる。
 
 
「真樹夫さんの、何処がいいっつんだ」
 
 
 その声音には、真樹夫に対する明らかな軽蔑が滲んで見えた。その声に、皮膚がぞわりとざわつく。
 
 
「吾妻組の幹部だっつっつても、別に普通の男と変わりゃしねぇ。女だって男だってとっかえひっかえ遊んでる色魔じゃねぇか。何処がいいのか、俺にはわからない」
 
 
 言葉も返さず、一息に溝尾の掌を叩き落とした。一瞬の溝尾の驚いた顔、それから唇の端を自嘲とも嘲笑とも付かぬ笑みに歪める。いつも通りの憎憎しい表情だった。
 
 小山は、半ば放心したまま溝尾の顔を見つめて、呟いた。
 
 
「真樹夫さんのことを、馬鹿にするな」
「俺は、間違ったことなんか言ってないね。拾われりゃ、お前は誰にでも尽くすのか? ケツ振って懐くのか? 駄犬の極みじゃねぇか。無条件で尽くすお前の方がよっぽど滑稽なぐらい、真樹夫さんは下の緩いだけのただの男だよ」
 
 
 最後まで聞くことは出来なかった。固く握り締めた右拳を、溝尾の頬へと叩き付ける。柔らかい頬肉と硬い頬骨の感触を拳に感じた瞬間、溝尾の身体が畳の上を転がるのが見えた。畳の擦れる音がまるでノイズのように脳髄の奥に響く。自分の呼吸の音が五月蝿い。背が波打つ。右腕が重たくて仕方ない。
 
 溝尾は、鈍く呻き声をあげながら上半身を起こして、小山を睨み付けた。その左頬は赤い。
 
 
「お前…阿呆か。俺を殴ろうが事実は変わんねぇ。真樹夫さんは抱けりゃ誰でもいい。お前も物珍しがられて一回ぐらいは抱いてもらえるかもな。だが、その後は捨てられるのがオチだ。そんなの解り切った事だろうが」
「あんたに…何がわかる」
「じゃあ、お前を恋人にでもしてくれるのか? 奈美さんじゃなくお前を選んでくれるのか? 真樹夫さんが? どう足掻いても、お前は真樹夫さんの特別にはなれやしない。真樹夫さんの子供も産めない。真樹夫さんと結婚もできない。お前と真樹夫さんの未来なんてない」
「わ、かってるッ!」
 
 
 金切り声が迸った。その無様な声の響きに、唇がわなわなと震えた。自身の胸倉を鷲掴んで、広がる虚無を必死で飲み下そうとする。解ってる、解ってる、あんたなんかに言われなくても解り切ってる、そう答えてやりたいのに、唇がぱくぱくと開くばかりで言葉は出てこない。
 
 言葉が出てこない事こそが答えだとばかりに、溝尾が鼻を鳴らして哂う。そうして、ふと何かに気付いたように薄い唇を湾曲させた。
 
 
「お前さ、殺しちゃえよ」
「…ぁ?」
 
 
 溝尾を凝視する。腫れ上がり始めた左頬を掌で撫ぜながら、溝尾が酷薄に哂っていた。
 
 
「真樹夫さんを殺して、お前のもんにすりゃいいんだよ」
「…何言ってるんすか」
 
 
 呆然と呟く。狂ったとしか思えない台詞に、小山は自分の中から何かが抜けていくのを感じた。
 
 
「他人のものになる真樹夫さんに耐え切れないだろ? 真樹夫さんが生きてる限り、お前のもんにはならねぇんだ。なら、お前、真樹夫さんを殺しちゃえよ。そうすりゃ真樹夫さんはお前だけのもんだ」
「そんなん、狂ってる…おかしい、おかしい、そんなんできるわけない」
「出来るんだよ、世界中の誰よりもお前が一番真樹夫さんを愛してんだろうが。なら、お前のもんにならないことこそ可笑しいじゃねぇか。不条理じゃねぇか。それこそ、狂ってるとは思わないか?」
 
 
 咽喉の奥で笑いを噛み締めるような声で、溝尾が囁きかける。甘美な誘惑、まるで麻薬のように脳味噌に潜り込んでくる。咽喉を鈍く上下させて、小山は震える掌で唇を押えた。
 
 溝尾の言っていることは、決して正しくない。小山を最悪な結果に陥れる言葉だ。だが、その言葉はおぞましいほどに甘い。
 
―――俺だけのもの。俺だけの真樹夫さん。
 
 くらりと意識に毒が混じる。こんなにも醜い願望、欲望、溝尾の囁きが体内に入り込み、心臓を侵していく。
 
―――殺せば、殺せば、真樹夫さんを殺せば、俺のもの。
 
 
「いやだ、いや…」
 
 
 頑是のいかない子供のように、いや、いやと無意味に繰り返す。畳に額を押し付けて、掠れた悲鳴をあげる。そんな事はできない。したくない。でも、でも―――獲られたくない。奈美さんのものになった真樹夫さんを見ることは耐え切れない。
 
 
「ま、最終的に選ぶのはお前だ。指を咥えて、他人のものになるのを見ているか。それとも、殺して自分だけのものにするのか、好きにすればいい」
 
 
 毒を撒き散らすだけ撒き散らして、溝尾が去っていく。独りきりになった部屋で、小山はじっと蹲ったまま動けなかった。全身が凍えていた。自分自身のおぞましさに震える。何が犬だ。主人を噛み殺そうとする犬がどこにいる。自分は犬である資格すらない。
 
 
「真樹夫さん…」
 
 
 愛しい人の名前を呟く。涙が零れてくる。愛情が殺意に変わるのであれば、こんな感情はいらなかった。ただ、ひたすら尽くすだけの忠義さえあればよかったのに。昔の自分の気持ちを思い出そうとした。真樹夫さんを恩人として慕い、ただ純粋に尽くしていた頃を。だが、思い出すのは、真樹夫さんの舌の感触ばかりで、その浅ましさがいっそ哂えた。
 
 天井を仰ぎ見る。神様なんか信じていない。だけど、誰か、誰でもいいから答えて欲しい。どうすればいいんだろう。どうすれば、一番、正しいんだろう。答えなど、誰もくれない。正しい道へと、手を引いてくれる人間などいない。
 
 周囲は、暗闇だった。闇から黒い腕が伸びて、小山を深淵へと引き摺りこもうとする。その引っぱる腕に逆らうように首を左右に振りながら、小山はぽろぽろと涙を零し続けた。
 
 

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