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07 殴られた(上)

 
 本質というものについて考える。
 
 物事の本来の性質や姿、自分を構築する『何か』について。それは暴力なのか、ヤクザの息子という肩書きなのか、真樹夫の肌の上を通り過ぎていった幾人もの女達の残り香なのか。それとも実際には本質などなくて、小さな欠片のような多種多様な感情が凝縮されたものが自分という生物なのだろうかと。もし、その構築された感情が無惨にほどけることがあれば、自分という存在も毛糸の玉のように一緒にほどけて消えてしまうのではないだろうか。
 
 そこまで考えて、真樹夫は結局思考を放り出した。本質というのは、所詮魂だとかツチノコだとかと同じ類のものだ。実際に存在するかのように言われているけれども、その存在を確認できた人間はいない。だから、他人のならまだしも、自分の本質を探るなんて事は、無駄も無駄、無意味な行為でしかない。
 
 顎へと掌を当てながら、ゆっくりと溜息を吐き出す。真樹夫がそんな事を考えたのは、目の前の男の本質とは何だろうかとふと思ったことから始まる。茅野組長がいつものしかめっ面で、とくとくと真樹夫の不貞に対する愚痴を零している。
 
 
「男には甲斐性ってものが必要なのも解りますがね、真樹夫さん。貴方は、うちの奈美と婚約されているんですから、奈美のためにも女遊びも程ほどにして頂かないと。この間も、うちの管轄の店で大層な豪遊をされて行かれたそうで。売り上げを伸ばして頂くのは有難いのですがね、うちの奈美の耳に入ったら、奈美がどう思うか考えてみて下さいよ」
 
 
 この男の口調は一貫してこうだ。『~ですがね、うちの奈美が~』。もっと語彙力はないのかと、いい加減ツッコミの一つでも入れたくなってくる。そもそも会話の中に、何回奈美という単語を入れるつもりなのか。この男は奈美という単語を使わないと会話が出来ないのではないだろうかと真樹夫は微かに考えた。
 
 それぐらいこの男の親バカ加減は酷い。普段は、極道の組長らしい威圧感とカリスマ性を兼ねそろえた中年のくせに、娘のこととなると一気にその脳味噌の軽さが垣間見えてしまう。奈美が生まれるまでは、こうじゃなかった。決断を迷わず、時には苛烈なまでの暴力を奮い、その豪胆さと懐の広さで組員達を一手に率いてきた古き良き極道の男だった。それが、娘一人生まれたぐらいで、こんなにも変わってしまうのだから嘆かわしい。
 
 もし、本質というものを考えるとしたら、この男の本質は、間違いなく親バカだ。
 
 そんな事を思いながら、真樹夫は曖昧な笑みを浮かべた。別段媚びる必要性も感じないが、一応吾妻組の中では三本の指に入る程度には有力な組の組長だ。わざわざ機嫌を損ねることもない。
 
 
「解ってますよ。奈美ちゃんのことは、俺も一番に考えてます。ただ男ですから、時には羽目を外したくなる時もあるんですよ」
 
 
 わざとらしく殊勝に答える。本音ではなかったが、だからといって嘘というわけでもなかった。実際、真樹夫は、奈美の事をそれなりには考えている。愛しているかと聞かれれば、勿論鼻でせせら笑う。そもそも真樹夫は誰かに対して、愛だ恋だ云々をほざくつもりはない。肉体関係や結婚に、愛情の有無は必要ないとさえ思う。結局のところ、すべては利害関係だ。奈美との婚約は、その利害関係が上手く一致しただけのことに過ぎない。
 
 だからといって奈美を蔑ろにするつもりはない。奈美は、何といっても茅野組の愛娘なわけだし、今後の吾妻組での真樹夫の地位を確立するためには必要なパーツとも言える。真之介が死ねば、次の組長は間違いなく将真が継ぐことになる。その際に、吾妻組で有力な組の娘と婚約していれば、煩わしい権力争いを少しでも避けることができる。だから、幾ら女遊びをしていても、奈美を一番想っているフリをする。そうして、そこそこ恋人同士のフリでもして楽しませて、結婚して子供の一人や二人作って幸せな夫婦のフリをしてやればいいと冷めた思いで考えている。それが真樹夫にとって、一番有益な選択だ。
 
 茅野組長が僅かに渋い表情を浮かべる。真樹夫の真意を信じていいものか、食って掛かるべきなのか、思い悩んでいるような表情だ。流石に一筋縄では、他人の言葉を信じようとはしない。それが例え、自らの組の直結である吾妻組NO.3の言葉でも。だからこそ未だに茅野組を背負えているのだろう。真樹夫は、わざとらしく反省の表情を浮かべた。
 
 
「奈美ちゃんは、俺のことを嫌いになりましたか?」
「いいえ、そんなことは…」
「奈美ちゃんに嫌われたら、俺はとても悲しいです」
 
 
 見え透いた台詞を吐いて、露骨に肩を落とす。自分でも白々しいと思ったが、こうあからさまに悲しみを表現されれば、大抵の場合、相手はこちらを責めることが出来なくなってしまう。茅野組長も、真樹夫の露骨な落ち込みように、一瞬面食らったように目を大きく見開いた。それから、焦りの表情を浮かべる。
 
 
「奈美は、真樹夫さんの事を好いとります」
「嘘です。奈美ちゃんは、俺に呆れてるんでしょう? 女遊びばっかりしてる不実な男だって」
 
 
 先ほどまで真樹夫を詰っていた茅野組長が、今度は真樹夫をフォローする側に回る。その立場の逆転に、思わず咽喉から零れそうになる笑いを、真樹夫は必死で噛み殺した。
 
 
「だけど、信じて下さい。俺、奈美ちゃんには清廉潔白であろうと思ってるんです。だから、結婚する前の奈美ちゃんに、どうしても手を出せないんです。そうしたら、他の女で気を紛らわせるしか出来なくて…」
 
 
 弱々しい自分自身の声音に、反吐を吐き捨ててやりたい。茅野組長がまるで自分の方が悪人だったとでも言わんばかりの、罪悪感にまみれた表情を浮かべる。今にも真樹夫に『疑って悪かった!』と土下座して来そうな雰囲気だ。それを感じ取った瞬間、不快感と優越感がないまぜになって、真樹夫の胸に押し寄せて来た。こういう時は、流石に自分でも性根が腐ってると思う。他人が右往左往している姿を見るのが好きだ。まるでお気に入りの玩具を眺めているような穏やかな気分になれる。結局のところ、誰にも主導権を握られたくないという自分のプライドの高さ故なんだろうが。
 
 
「いや、すまない、真樹夫君」
 
 
 肩を落として、茅野組長が呟く。その声に、何処か嘲りと紙一重の物悲しさを覚えながら、真樹夫は体裁だけは落ち込んだ婚約者を演じた。首を左右に振りながら「いいんです」と如何にも寛容な台詞を吐く。何が『いいんです』だ。結婚前に奈美に手を出さないのは、清廉潔白云々なんて関係がない。ただ単に面倒臭いからだ。親バカの茅野組長の面倒臭さは言わずもがな、奈美も父親の血を引いて、うんざりするぐらい面倒臭い。散々可愛がられて育てられた分、奈美の我侭は時々度を超す時もある。真樹夫との婚約が発表されてからの一ヶ月間は酷かった。吾妻本家に居座り、まるでもう自分が妻であるかのように振る舞い、真樹夫の周りをうろつく女を威嚇し、父親に頼んで駆逐させた。それがさも当然かのように奈美は笑って、真樹夫を束縛しようとする。正直、その束縛の酷さには、頭痛すら覚える。そんな奈美と一度でも肉体関係を持てば、際限無くつけあがるに決まっている。そうすれば、今度はどうするか。子供はサッカーチームぐらい欲しいわね、とでも言い出しかねない。真樹夫は、子供が嫌いだ。愛情を必要としているものを、真樹夫は一概に嫌悪している。
 
 微かな頭痛を覚えて、目頭を押さえる。すると、それを涙ぐんでいるとでも勘違いしたのか、茅野組長が慌てたように畳を膝で摺りながら真樹夫へと近付いてきた。
 
 
「真樹夫君、あまり私の言ったことを気にしないでくれ」
 
 
 一時間近く愚痴愚痴とほざき続けたのは誰だ、と思わず哄笑が溢れそうになる。もし、奈美への愛がこの男をここまで鈍らせたというのであれば、愛というのは毒だ。
 
 わざとらしく目尻を指先で拭う素振りをしながら、真樹夫は力ない微笑みを浮かべた。寛容で愛情深い男を演じる自分に、拍手と同時に唾を吐きかけてやりたくなる。欺瞞と諧謔に満ちた自分を誇らしく思うこともあれば、堪え切れない憎悪を抱くこともある。自己愛と裏腹な自己嫌悪はいつものことだ。そう慰めの言葉を吐いても、こういう自分にはいつまで経っても馴染めなかった。まるで宇宙人が自分という皮を被っているかのようにすら感じるときがある。
 
 
「いいえ、俺が悪いんです。もうこの話は止めましょう、お義父さん」
 
 
 お義父さんと呼ぶと、茅野組長の顔が目に見えて綻ぶ。随分と簡単に表情が変わるものだ。他人の感情の移り変わりというのは、妙に面白い。真樹夫の声や態度一つで、いとも簡単に喜んだり傷付いたりする。真樹夫はそういう人の感情の容易さを、鬱陶しいと思うこともあれば、愛らしいと思うこともある。今は、少し鬱陶しい。茅野組長が安堵したように緩く息を吐き出す姿を見ていると、もう一度酷い言葉でも吐いてやろうかと思う。だが、そうすれば、また長々と愚痴が始まってしまうに違いない。ぐ、と咽喉の奥に言葉を流し込みながら、真樹夫は目を細めた。
 
 
「それで、本題は?」
 
 
 単刀直入に訊ねる。途端、茅野組長の顔に、微か荒んだ色が滲んだ。皮膚から溢れ出すのは、何百人もの組員を抱える茅野組組長の威厳だ。親バカといっても、結局はヤクザか、と妙に真樹夫は納得した心地になる。じゃあ、この男の本質は結局暴力なのか。茅野組長は潜めるような声音で語り始めた。
 
 
「幌田組が」
 
 
 茅野組長の口から出てきた名前に、無意識に肌がささくれ立つのを感じる。幌田組、三年ぶりに聞いた名前だ。真樹夫の弟である、吾妻真澄が管理する組の一つ。思い返せば三年前、時岡から呼び出されて、幌田組が銃をアジア方面から輸入しているという毒にも薬にもならない情報を渡された。その後、真樹夫も動向を窺っていたが、幌田組に特に目立った動きはなく、いつの間にかその情報の真偽も有耶無耶になってしまった。その名前がまた出るとは、意外とまだ縁は続いていたのかもしれない、と思いながら、真樹夫は一人頷いた。
 
 
「幌田組の奴らが最近うちのシマをうろついとります。どういうつもりかは解らないんですが、あいつら最近武装化してるって噂もありますし、うちに戦争仕掛けてくるんじゃないかと思いまして」
「それだったら、俺じゃなくて真澄に話通すのが筋ってもんじゃないありませんか? 幌田組は、あいつの管轄だ」
「真澄さんは…」
 
 
 茅野組長の言葉尻が曖昧に濁る。真樹夫は身体の底から湧き上がって来る失望と憤怒を押し隠すので必死になった。またか、と思う。真澄の名前を出した途端、大抵の組長は、見てはいけないものを見たかのように顔を伏せ、言葉少なになる。まるで、その存在を認めること自体が恐ろしくて堪らないとでも言いたげに。その度に『所詮、ただの私生児じゃないか』と頭ごなしに罵声を浴びせかけてやりたくなる。その辺の道ばたで生まれてきた野良犬の息子を、ヤクザが恐れるだなんてナンセンスだ。だが、真樹夫も時折考えずにはいられなくなる。ヤクザにすら恐れられるあの男は、一体何なのだろうと。一体何になるのだろうと。
 
 
「つまり、こういうわけですか。真澄が怖くて直談判できないから、俺に代わりに言えと」
 
 
 敬語をかなぐり捨てて吐き捨てる。茅野組長は一瞬怒りに顔を歪ませたが、無表情に自分を見下ろす真樹夫の視線に気付いた途端、萎縮したように肩をすぼませた。何か言いたげに口をもごもごと動かすが、一向に何も言わない。真樹夫は大きく溜息を吐いた。年寄りの馬鹿げた恐怖心の尻拭いが自分に来るのは、何とも不愉快だ。ガキじゃねぇんだぞ、という言葉を必死で噛み殺す。撥ね除けるべきか、それとも譲歩するべきか、脳味噌は動くが、心は下らないと一息に吐き捨てる。結局真樹夫は首を左右に振りながら、許諾の言葉を呟いた。
 
 
「解りました。真澄には俺から言っておきます」
 
 
 自分でも投げ遣りだと思った。歩いて三歩で忘れてしまうような口約束だ。どうだっていい。だが、そんな投げ遣りな言葉でも、茅野組長は安心したようだった。感謝の言葉を吐いて、それからどうして自分がこんな若造にお礼を言わなくてはならないのだという不服の表情を浮かべた。その醜悪な表情から視線を逸らして、真樹夫はふと本質について再び想像を巡らせた。
 
 もしかしたら、俺の本質は嘘かもしれない。本当のことなんか何もない。空虚な嘘にまみれ、形作られたものが俺だとしたら、結局のところ俺の中身はからっぽじゃないか。
 
 そうして、不意に、本当に不意に、犬の目が目蓋の裏に浮かんだ。欺瞞も自己憐憫も恐れもなく、真樹夫を盲目的に慕い、尽くそうとする犬の目を。不意に、犬に触れたいと強く思った。その眼を覗き込んで、頬に触れて、『俺が好きなんか?』とそれだけを問い掛けたい。その答えが聞ければ、自分のからっぽな中身が少しでも埋まるような気がした。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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