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07 殴られた(中)

 
 横っ面を張り飛ばしたいと思う男がいる。
 
 嫌なところで会ったと思う。よりにもよって、茅野組長と別れた直後に会うことはないだろう。バッドタイミングなのか、それともグッドタイミングなのか、どちらか区別は付かないが、どっちにしろ腹立たしいことこの上ない。
 
 縁側に立ったまま、庭先で地味に一人壁打ちなどをしている男へと視線を向ける。いっそこのまま見なかったことにしてやろうかと思った瞬間、男の視線が真樹夫へと向けられた。壁から跳ね返ってきた野球ボールを受け止めてから、男は真樹夫を見上げ微笑んだ。
 
 
「どうしたんですか、真樹夫兄さん?」
 
 
 笑顔がこれほど不愉快な男も珍しい。両面テープで顔面に貼り付けたような笑みは、見るだけで他人の神経を逆撫でする。苛立たしさに舌打ちを零しそうになるのを必死で抑えて、真樹夫は迎合するような笑みを浮かべた。
 
 
「御前こそ何しとんや。一人でボール遊びなんざ寂しいだけやろうが」
 
 
 軽く世間話をしながら、真樹夫は気の抜けた兄を演じ続ける。陽気で些末なことにはこだわらない兄を。真澄は、一度掌の中でボールを転がしてから、緩く首を傾げた。
 
 
「健一とキャッチボールをしてたんですけど、途中で怒っていなくなっちゃったんです」
 
 
 口元に浮かぶ笑みに反して、その口調は酷く寂しげだった。それを真樹夫は鼻白む思いで聞いた。子供相手にキャッチボールをして、置いてきぼりにされて、この男は恥ずかしいとは思わないのだろうか。そんな心細そうな声をあげてて、惨めだとは思わないのか。年甲斐もなく、小学生の子供に翻弄されている男に、嫌悪すら感じる。こんなのが自分の弟だとは信じたくもない。泥のように心臓を占めて行く感情に蓋をして、真樹夫は「ほうか」と緩やかな相槌を返した。
 
 
「何で怒らせたんや?」
「怒らせるつもりなんてありませんでした。ただ、あとで一緒にケーキを食べようって言ったら、いきなり怒り出したんです。折角、健一のすきなフォンダンショコラを買ってきたのに」
 
 
 溜息を吐き出して、真澄は途方に暮れたように遠くを見詰めた。まるで消えていってしまった少年を追い求めるような眼差しだった。
 
 フォンダンショコラという単語に、真樹夫の頭にふと思い浮かぶことがあった。そういえば、いつの日か子供が池の前で鯉にケーキを撒いていることがあった。憎憎しげな表情で、あいつの自己満足でケーキを与えられたんだと。それを思い出せば、口元に苦笑いが滲んだ。
 
 
「ほんまにお稚児ちゃんは、フォンダンショコラが好きなんか?」
 
 
 問い掛けると、真澄はぱちぱちと繰り返し瞬きをした。どういう意味が解っていないかのような表情だった。真樹夫は、それ以上問い掛けるのをやめた。わざわざ答えを教えてやる義理など何処にもない。見当違いな愛情を子供に向けていることに、この男が気付くことは一生ないだろう。愛情というものを、そもそも勘違いしているのだ。この男にとって、愛情とは所詮自己満足でしかない。相手の苦しみや悲しみを感じ取ろうという気持ちがなく、ただ自分の愛情を身勝手に押し付けるだけなのだ。そこまで考えてから、真樹夫はふと自分の事を思った。だが、悔しいことに、自分もこの男と大差はない。同じ穴のむじなだ。そもそも愛情なんて、自分だってろくに解っちゃいないのだから。
 
 真樹夫は首を左右に振って、思考を追い払った。それから、あからさまな猫撫で声を上げた。
 
 
「そういえば、茅野はんが言うとったんやけどなぁ、御前んとこの幌田が最近人様の家に土足で入ってきとるらしいやないか」
 
 
 真澄が首を傾げる。しかし、その唇は微かな笑みを刻んでいた。
 
 
「はぁ、そうですか」
「危なげなもんまでようけ仕入れて、戦争でもするつもりなんかの」
「さぁ、どうでしょうか」
 曖昧な言葉ではぐらかそうとする男を、笑みを浮かべたまま見据える。
「俺は荒っぽいことは、あんま好かんのんや」
「僕もですよ、兄さん」
 
 
 白々しい。馬鹿馬鹿しい。下らない。所詮狸と狐の化かし合いだ。溢れ出そうになる遣る瀬無さともつかない気怠さを押し隠して、真樹夫は言葉を続けた。
 
 
「なら、組の管理ぐらいちゃんとせえ。肝が萎縮した爺の戯言を聞くのなんざ、二度と御免や」
「解ってますよ」
 
 
 そう言って、真澄は肩を竦めた。そうして、野球ボールを再び壁へと投げる。白いボールが壁をに当たって、地面をバウンドして真澄の掌の中に戻ってくる。そのボールの軌跡を眺めながら、真樹夫は呟いた。
 
 
「御前、今度は何するつもりや」
「何のことです?」
「何かろくでもないこと考えとるんやろう」
 
 
 跳ね返ってきたボールを片手で受け取りながら、真澄が真樹夫へと視線を滑らす。それから、暫く考え込むように掌の中でボールを転がしてから、小さな声で答えた。
 
 
「僕は何も考えてませんよ」
「嘘吐け」
「みんな嘘吐きだ。兄さんも僕も、誰も彼も。だけど、時々本当のことを言います」
「それが今やって確証はあらへん」
「それは、信じるしかありません」
 
 
 真澄はにっこりと微笑んだ。まるで煙に巻くような会話だ。次第にこめかみの辺りがピリピリと神経質に引き攣れて来るのがわかる。手首の付け根で雑にこめかみを揉みながら、真樹夫は溜息を吐き出した。
 
 
「御前と下らん言葉遊びするつもりはないんや。ええか? 何か妙なことしよったら、俺もそれなりの事はさせて貰うけぇな」
「それなりの事ですか」
「それなりや」
 
 
 意味深げな言葉を二人繰り返して、肩を揺らして笑う。腹の底を探り合っているかのような笑いは、いつもの事だけれども、時々疲れることがある。頬肉が曖昧に痙攣するのを感じながら、真樹夫は真澄へと背を向けた。体内から溢れ出てくる苛立ちや苦々しさを噛み締めながら歩く。数歩進んだとき、背後から声が聞こえた。
 
 
「真樹夫兄さん」
「何や」
「そういえば、先ほど奈美ちゃんが組員達の大部屋で兄さんを待っていましたよ」
 
 
 振り返り、ほうか、と相槌を打つ。今度は奈美の機嫌取りにいかなくてはいけないのかと思うと、酷くげんなりした。今から何処に連れ回されるんだろうか。ショッピングか食事か。しかし、真澄はまだ何か言いたげに真樹夫を見つめている。
 
 
「まだ何かあるんか」
「それと、犬が泣いているみたいですよ」
 
 
 聞いた瞬間、内臓が戦慄くのを感じた。不整脈が起こって、心臓が妙な具合に跳ねる。ふ、と短く息を吐き出して、同じように、ほうか、と相槌を返す。
 
 
「何で、そんなことわざわざ教えるんや」
 
 
 問い掛けると、真澄はひょいと肩を竦めた。
 
 
「兄さんは、犬を可愛がっているようでしたので」
「阿呆か、犬やで。婚約者と同列みたいに言うなや」
「女より犬が大事という人間は、往々にしているものですよ」
「それが俺やと? 随分、俺のこと阿呆に思ってくれとるみたいやな」
 
 
 困ったように、真澄が眉を下げて、少し笑う。自分がまるで子供のように突っ掛かっているようで、真樹夫は腸を蝕むような自己嫌悪を感じた。取り繕ってきていた仮面に罅が入る。
 
 
「真樹夫兄さんのことを侮っているわけではありません。そのように聞こえたのでしたら謝ります」
 
 
 自分から身を引いた男に、微かに安堵を覚える。これ以上この話題を突っ込まれれば、今まで取り繕ってきた仮面がバラバラに砕け散ってしまうような気がした。それが真樹夫には恐ろしかった。真澄に悟られないように、ゆっくりと静かに安堵の息を吐き出す。そうして、再び歩き出そうとした時、ふと胸を掠めた疑問があった。その疑問は、真樹夫の胸を微かに燻らせた。
 
 
「随分と、俺の犬のこと気にしてくれとるみたいやないか」
 
 
 言葉にした瞬間、怒りを覚えた。それが誰に対する怒りかは定かではない。自分に対するものか、目の前の男に対するものか、それとも犬に対するものか。自分が犬を特別気にかけているようで、妙に腹立たしい。何故、主人が犬を気にしなくてはいけないのか。単なる犬じゃないか。
 
 真澄は、掌のボールを見つめていた。そうして、俯いたまま、こう呟いた。
 
 
「僕は、誰かが僕に与えてくれた優しさを忘れません。例えそれが一時の気まぐれで、他には誰一人として覚えてないとしても」
「何言うとるんや?」
「あの犬がいらなくなったら僕に下さい」
 
 
 横っ面を張り飛ばされたような衝撃だった。息が詰まる、止まる、苦しい。 笑うべきなのに、笑えない。此処は鷹揚に寛大に、ええで、と一言吐けばいい。犬に何てこだわらない男を演じればいい。それなのに、出来ない。仮面が音を立てて剥がれそうになる。掌で無意識に顔を押さえながら、真樹夫は返す言葉を失った。真澄は、真っ直ぐ真樹夫を見つめている。その目は、笑っていない。
 
 
「御前には、お稚児ちゃんがおるやろうが」
「あの犬を僕の性欲処理に使うつもりなんてありませんよ。僕は、健一しかいらない」
「なら、どういうつもりや。何で、あんな阿呆を欲しがる」
「どういうつもりもありません。今のままだと、あの犬は潰れると思っただけです。潰れるくらいなら、僕が貰いたい」
「御前にやるくらいなら、潰したる」
 
 
 熱の感情が言葉になって溢れ出す。本気だった。本音だった。目の前の男にくれてやるぐらいなら、真樹夫自身の手で潰した方がマシだ。目の前の男だけじゃない。他の誰にも、誰かに渡すぐらいなら潰す。滅茶苦茶に潰して、頭も腕も足もミンチにしてやる。凶暴な独占欲に肺が焼ける。吐き出す息が熱い。こめかみが熱を持って、どくどくと脈打っている。奥歯を噛み締めると、ガギッと砕けるような音が響いた。
 
 
「潰して、喰ったる」
 
 
 吐き捨てる。頸動脈を噛み千切って、頭から爪先まで欠片も残さず喰い尽くしてやる。内臓を啜って、骨まで噛み砕いて、この世に欠片一つ残してやるつもりはない。誰の目にも触れず、誰の手にも触れず、俺の腹の中でゆっくりと消化していってやる。凄絶な情念が真樹夫の心臓をガリガリと掻き毟る。
 
 真澄が何処か呆れたような、痛ましいものを見るかのような視線を向けてくる。巫山戯るな、手前がそんな目で俺を見るんじゃねぇ! 喚き散らしたいほどの憤怒を抱えながら、真樹夫は真澄へと背を向けた。背後から、小さな声が聞こえてきたけれども、今度は決して振り返らなかった。
 
 
「僕も兄さんも報われない」
 
 
 何が報われない。報われたいと思ったことなんて、俺は一度だってない。
 
 胸の中で独りごちながら、真樹夫は自分が何処へ向かっているのだろうと思った。一体誰のもとへ。解らぬまま歩き続けた。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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