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07 殴られた(下)

 
 もし、もう一人自分が居て、今の俺の後ろに立っていたら、迷いなくこう言うだろう。
 
 
『何しとんや、馬鹿やないんか』
 
 
 五月蝿い、そんなことは当の本人が一番よく解っている。歯噛みしたいような矛盾と苛立ちを抱えながら、真樹夫はじっと目の前の障子を見詰めていた。
 
 どうして、奈美のところではなく犬の部屋に自分は来ているのか。
 
 再び投げられた自分自身への問い掛けに、微かな疲労感と辟易を覚える。掌で額を押えながら、深く溜息を漏らす。これは、きっと脳味噌の誤作動だ。脳味噌が伝達異常を起こし、身体を勝手に動かして、此処まで連れて来た。そうに決まっている。そんな言い訳を繰り返しながら、もう一度溜息を吐く。馬鹿馬鹿しい。幼稚園児だって、こんなふざけた言い訳はしない。自分の行動を説明できないのは、阿呆ガキじみている。もっと簡潔に考えよう。
 
 つまり、自分は奈美ではなくて小山を選んだということだ。あの犬を!
 
 更に馬鹿げた答えが出てきた。傍らの柱に頭を打ち付けたくなってくる。糞阿呆糞阿呆糞阿呆、何万回だって自分を罵ってやりたい。
 
 俺が犬を選んだだって!? 気晴らしのサンドバックになる以外、何の取得もないあの犬を!? ゴミ捨て場に捨ててあったシンナー狂いのヤンキー、顔も不細工で、物覚えも悪く、いつか銃弾の盾にでもしてやろうと思っていた能無しを!? 完全に、俺の頭はイカれてる!
 
 あの犬のために奈美を捨てるだなんて有り得ない。奈美を選んでおけば、俺は安泰だ。親父がいなくなった後も、強力な後ろ盾ができ、地位を危ぶむ必要もなくなる。もし俺が奈美を捨てれば、吾妻組は茅野組を失うかもしれない。そうなれば、俺だけでなく次期組長になる将真まで危うくなるかもしれない。間違っても、万が一間違っても、俺は奈美を選ぶ。選ばなくてはならない。それなのに―――どうして、足が動かない。
 
 愕然とした思いで、足元を見詰める。また脳味噌が誤作動を起こしている。足が動かない。動けない。自分がするべき行動を解っている。此処から立ち去り、奈美のところに行く。遅くなったお詫びに奈美の頬にキスでも落として、そのまま食事に行く。そつない仕草で、要領良く、朗らかに笑って。それなのに、今の俺は何だ。余裕もなく、要領の良さなんてちっとも感じられず、笑おうにも頬が引き攣るってい。こんな格好悪い自分なんざ知らない。
 
 襖の前に立ち竦んだまま、真樹夫は自分自身を見失った。今すぐ髪の毛を掻き毟って喚き散らしたい衝動を抑える。自分自身が解らない不安は、腹立ちと紙一重だった。握り締めた拳に力が篭る。
 
 そうだ、俺がこんな情けない羽目になっているのは犬のせいだ。訳のわからない情緒不安定さに翻弄されて、畜生、全部手前のせいじゃねぇか。込み上げてきた憤怒のままに、目の前の障子を一気に開く。
 
 鋭い音を立てて開いた障子の奥、薄暗い部屋の中で、驚いた目でこちらを見詰めている犬がいた。その犬を見た瞬間、真樹夫の体内で煮え滾っていた怒りが、まるで穴のあいた風船のようにぷしゅりと萎んだ。
 
 
「何で、泣いとるんや」
 
 
 呆れたような、困惑したような声が無意識に零れた。犬の目は、涙に濡れていた。見開かれた瞳からは、未だに大粒の涙がぽろぽろと溢れている。赤く腫れ上がった目尻が酷く痛々しい。部屋の真ん中でへたり込んだまま、犬はまるで信じられないものでも見るかのような視線で真樹夫を見つめていた。
 
 
「なん、…で、真樹夫さん…」
「何で泣いとるんや」
 
 
 犬の戸惑った声に被さるように、同じ問い掛けを零す。今更涙を思い出したかのように、犬が慌てた仕草で目元を拭い始める。その誤摩化すような仕草が気に食わず、真樹夫は大股で犬へと近付いていった。目元を覆う掌、その腕を掴むと、犬が泣き出しそうな顔で真樹夫を見上げた。
 
 
「何で泣いとるんか言えいうとるんや」
「…すんません、勘弁して下さい」
 
 
 弱り切った声で、犬が呟く。その弱々しく掠れた声が真樹夫の神経を逆撫でする。犬が真樹夫に理解できぬ涙を流しているのが許せない。他の誰かに傷付けられるなんて裏切りと同じだ。そうして、涙の理由を語ることを拒否するなんて。一丁前にふざけた虚勢張りやがって犬如きが畜生。
 
 右手を振り被り、犬のコメカミへと向けて振り下ろす。バチンと鋭い音が鳴って、掌に固い衝撃を感じた。眼下で、犬の頭がぐわんと横揺れする。真樹夫が腕を掴んでいるから倒れることも出来ず、犬は咽喉の奥で鈍い悲鳴をあげた。殴り付けた掌の皮がひりひりと痛む。どうせなら拳で殴れば良かった。もっと痛め付けてやりたい。俺に泣いて縋りつくぐらいズタズタに傷付けてやりたい。
 
 
「言え」
「…すんません…」
 
 
 今度は拳で殴った。涙に濡れた頬に、拳を叩き付ける。指の下で、犬の頬肉が歪み、骨が音を立てて軋むのを感じた。ひぎッと犬が短く叫ぶ。叫び声が二声あがる前に、真樹夫は足裏を犬の下腹へとめり込ませた。ぐにゃりとした内臓の感触を感じる。内臓を踏み躙るように踵を動かすと、犬が嘔吐するような声をあげてえずいた。潤んだ犬の眼球からは、再び大量の涙が溢れている。唇の端からは、涎がだらだらと締まりなく垂れていた。
 
 
「言わんのんなら殺すで」
 
 
 低く吐き捨てると、犬がひくりと頬を引き攣らせた。涎で濡れた唇をわなわなと震わせて、それから力なく首を左右に振る。その頑なな様子に、堪えられようもない殺意が込み上げて来る。
 
 
「ほんまに殺すで、この糞犬が」
「ず、んまぜん、すんません゛、言えな゛いっす。どうじても、無理゛っす。すん゛まぜん、ごろして、くだざい」
 
 
 泣きつく様なその台詞に、真樹夫は一瞬息を呑んだ。語るよりも殺されることを選ぶ犬が信じられなかった。それほどまでに自分に隠したいことがあるのか。何故隠す。そんなにも俺が嫌か。そんなにも俺を信じていないのか。胸の奥からじわりと湧き出て来たのは、紛れもない悲しみだ。
 
 
「おれ゛は、クズです。犬にも゛なれ゛ねぇ、ゴミクズです。お、お゛れ、最低なこど考えま゛しだ」
「最低なこと?」
「いっ、言え゛ません。すんまぜん、すんま゛せん、真樹夫さん゛には、言えま゛せん゛」
「何で俺に言えんのんや! 何で俺に隠す! 俺は御前の―――」
 
 
 そこで舌が動かなくなる。まるで岩のように固まって、咽喉を詰まらせる。自分は一体何を言うつもりなのか。御前の飼い主か。上司か。恩人か。それとも、別の、自分と犬の間にはもっと違った関係性があるとでも思っているのか。
 
 犬がしゃくり上げながら、真樹夫をじっと見詰める。その唇から、目の前の犬からは決して聞きたくなかった名前が零れた。
 
 
「な、みさん゛、は…」
 
 
 奈美、奈美、どうして御前がその名前を口にする。何で、どうして、俺にその名前を突き付ける。そう思った瞬間、すべての謎が一本の糸で繋がった気がした。
 
 
「御前、奈美に惚れたんか」
 
 
 自分のものとは思えない冷め切った声が聞こえた。犬が驚いた表情を浮かべる。その驚きように、真樹夫は自分の想像が更に現実味を帯びていくのを感じた。身体から体温がすぅっと抜けて行く。
 
 
「奈美に惚れたけぇ、俺に言えんのか」
「ち、ちがっ、…ちがい…」
 
 
 恐慌したように首を左右に振り、後ずさろうとする犬の腕を引っ張る。逃げられないことに怯えたように、犬が目を見開く。涙と涎でぐちゃぐちゃに濡れた顔が薄闇にぼんやりと浮かび上がる。まるでB級のホラー映画のようだ。その面をせせら笑ってやりたい。それなのに、思うように笑えない。抑えようのない憎悪が体内から突き上げてくる。許せなかった。どうしても、許せなかった。この犬は、主人を裏切って、主人の女に惚れたのだ。この犬畜生が!
 
 固く握り締めた拳を、大きく振り上げる。犬の身体が萎縮して、筋肉がぎゅっと硬直するのが判った。赤く充血した瞳が大きく開かれて、犬の唇が小さく震える。その瞳を抉り出す。その唇を引き裂く。鼻を噛み千切って、首を掻っ切って、手足をもいで、皮膚を剥ぎ取って、全身の骨を砕いて、内臓を叩き潰して、この世に欠片も残らないように食い潰してやる。それなのに、
 
 
―――できない。どうしても、できない。殺してやりたいのに。飼い主を裏切って、飼い主の婚約者なんぞに惚れ込んだ糞犬を嬲り殺しにしてやりたいのに、それなのに出来ない。犬を失いたくない。苦しい、こんな矛盾した感情を俺は知らない。振り上げた拳が振り下ろせずに小さく震える。犬が震える真樹夫の拳を見ている。情けない、あまりにも無様な姿だ。羞恥と屈辱に身体が熱くなる。
 
 
「…お、おれ、は…なみさんに、惚れてない、です…」
 
 
 拳を振り上げたまま固まった真樹夫を見上げて、犬が呟く。その怯えた声音に、真樹夫は奥歯をきつく噛み締めた。
 
 
「信じられるかボケ」
「信じて、ください。おれは、なみさんに惚れてない」
 
 
 たどたどしくも真摯に語る犬を、それでも真樹夫は信じることが出来なかった。そんな自分が悲しいぐらい無様だと思った。力なく俯いて、駄々を捏ねる赤子のように真樹夫は小さく首を左右に振った。
 
 
「信じれん」
「…おれは、あなたの犬です。まきおさんの…」
 
 
 不意に、犬の声が引き攣る。ふっと犬の顔を見ると、犬はぽろぽろと涙を零していた。溢れ出る涙を掌で受け止めながら、犬はまるで信じられないものでも見るように掌に落ちる水を見詰めている。そうして、呻くように呟いた。
 
 
「犬で、す。真樹夫さんの犬です。俺は、あなたを裏切らない。裏切れない。おれは、真樹夫さんのために生きてる。真樹夫さんのために、死ぬ。そのためだけに、ここにいるんっす」
 
 
 酷く聞き取りにくい涙声で、犬がいたいけに訴える。それを聞いた途端、振り上げていた拳が力なく落ちた。身体の内で何かが暴れ回っていた。信じたい。信じたい。信じれない。矛盾した感情がぐるぐると体内で回って、真樹夫の心臓を掻き乱す。
 
 
「俺は、犬なんざ信じたりはせん」
 
 
 ようやく吐き出した言葉は、拒絶とは程遠かった。まるで信じさせてとでも言わんばかりの未練がましい声だと自分自身感じて、腹立たしかった。
 
 犬は、しゃくり上げながらも小さく何度も頷いた。まるですべてを諦め、すべてを受け容れようとしているような仕草だと思った。
 
 
「それでも、いいんっす。おれは、何もいらないんです」
「何が、ええんや」
「むくわれたいと思うのが、もともとバカだったんです。すこしでも、欲しいだとか、勝ちたいだとか、思ったのが、まちがいだったんっす。おれは、真樹夫さんの犬なのに。薄汚くて、やくたたずな、犬でしかねぇくせに…」
 
 
 執拗なまでに自分自身を貶めて、犬は涙を零した。そうして、指の爪を自分自身の首筋へとギリギリと食い込ませる。まるで自分自身を戒めるかのような、その偏執的な行動が真樹夫には酷く悲哀じみて見えた。
 
 
「御前は、ほんまに奈美に惚れとらんのんか」
 
 
 そう呟いた瞬間、犬の顔がくしゃくしゃに歪んだ。真樹夫を見上げたまま、犬が唇を戦慄かせる。何か言いたげで、何も言えない犬の泣き顔。
 
 
「…おれは、…誰にも惚れて、……ない、です」
 
 
 一言ずつナイフで心臓を切り裂いているかのような声だと思った。血反吐を吐くかのようなその言葉を聞いた瞬間、真樹夫の心臓もナイフで貫かれた。傷口から、温かい感情がどくどくと流れ出ていく。掌で胸を押さえる。心臓の鼓動を感じられなかった。全身が冷え切っていた。指先が細かく震えている。犬の腕を掴んだ手に感覚がない。身体が動かない。まるで電池の切れたロボットのようになっている。
 
 
「真樹夫さん…?」
 
 
 唐突に動かなくなった真樹夫を見上げて、犬は不思議そうに囁く。闇に、濡れた犬の瞳が光っていた。その瞳を食い入るように見つめたまま、真樹夫は自分が何かを失ったのだと思った。それが何なのか解らなかった。大事にしていた玩具を、床に叩き落したような酷く空虚な感覚だった。
 
 
「俺のこと、好き言うたやないか」
 
 
 声が聞こえた。それが自分が発したものだと気付くのに時間がかかった。そうして、気付いた瞬間、その言葉のあまりの惨めさに唇が痙攣した。まるで別れ話を切り出された女のように惨めったく、うざったい。今まで、そんな女共を蔑み、切り捨ててきた自分が言う言葉なのか。
 
 
「は、い。言、ったっす」
「あれは嘘やったんか」
「おれは、真樹夫さんにうそつかねぇっす」
「嘘吐いとるやないか、今! 誰にも惚れとらん言うたやろうが!」
 
 
 喚き散らす。こんなのは幼稚園児以下だと思う。薄気味悪い、気色悪い、こんな自分は知らない。こんな自分を知りたくもなかった。両手で髪の毛を掻き毟って、真樹夫は咽喉の奥で鈍く呻いた。自分自身のあまりの格好悪さに吐き気すらした。
 
 真樹夫の剣幕に、犬が目を見開く。そうして、酷く掠れた声で、真樹夫の一番聞きたくない言葉を呟いた。
 
 
「もう、むりです。お、れ、無理なんです」
「無理?」
「真樹夫さんを、好きでいられねぇんです」
 
 
 その言葉に、叩き潰される。犬を食い潰すどころか、自分の方が完膚なきまでに打ちのめされた。足元が崩れ落ちたような感覚。身体がよろめいて、壁に寄り掛からなくては立っていられなくなる。心臓が不整脈でも起こしたかのように早鐘を打っていた。
 
 
「どういう意味や」
「お、れは、真樹夫さんを…尊敬してるっす…。俺の恩人で、すげぇ人だって…思って…」
「そんなことは聞いとらん!」
 
 
 感情のままに怒鳴り散らした途端、犬の肩がびくりと大きく跳ねた。犬は俯いたまま、真樹夫の顔を見ようとはしない。それが無言の拒絶のようで、腹の底で困惑と恐怖が募って行く。
 
 
「す、んません、すんません…」
「何で、謝るんや」
「じぶん、の立場もわきまえず、身の程も、知らずに、好きだ、なんて、言って、……すんません……おれは、…ただの犬でしか、なくて……好きだなんて、もう言わねぇっす…なんにも、欲しがんねぇっす……ごめんなさい、ごめん、なさい…」
 
 
 しゃくり上げながら語られる謝罪に、真樹夫は自分が見限られたのだということに気付いた。犬は、もう自分を好いてはいない。愛してはいない。俺は、犬に、見捨てられた。胸が引き千切れそうだった。悲しかった。悔しかった。泣きたくて、たまらなかった。そのくせ、こんな時まで体裁を取り繕って涙一つ零せない自分は、とてもつもなく馬鹿げていた。
 
 こんな感情は知らない。たかが犬に好かれていないことが解ったぐらいで、どうしてこんなにも傷付くのか自分自身理解出来ない。そうか、と呆気なく言ってしまえばいい。元々こんな犬なんか、何とも思っていなかったじゃないか。それなのに、膝頭が震える。口許を掌で覆って、真樹夫はよろめいた。吐きそうだった。咽喉の奥から気色悪い感情が込み上げてきて、内臓が細かく痙攣している。おぞましい程の悲しみに襲われて、自分自身の行動が制御不能だった。
 
 
「ごめんなさ、い、すんません、すん、ません…」
 
 
 額を床へと擦り付けて、犬が馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。自分の手から離れてしまった犬。俺のものだったのに。俺だけのものだったのに。息が止まりそうなほどの悔恨が押し寄せてくる。震える唇が無意識に掠れた声を発する。
 
 
「俺の…どこが……」
 
 
 俺のどこが、何が悪かった。俺のことが嫌いになったのか、どうしたら、どうやったら俺のことをもう一度好きになってくれるのか。今すぐ犬の顔を掴んで、その目を見据えて問い詰めたい。だけど、できない。もう一度、好きではない、と言われるのが堪らなく怖かった。
 
 
「どうして……」
 
 
 切り捨てた女達の口から、何十回、何百回となく聞いてきた言葉が自分の口から零れる。目をぎゅっと閉じる。心臓が破裂しそうだった。悲鳴が溢れそうで、血が滲むぐらい唇を噛み締めた。もう耐え切れなかった。叩き付ける勢いで障子を開いて、そのまま廊下へと飛び出る。自分の行動が女々しくて情けないことぐらい自覚はある。それでも、どうしようもなかった。後ろから、犬が「真樹夫さん!」と悲鳴にも似た声をあげたが、真樹夫は立ち止まらなかった。
 
 足早に廊下を進む。眼球の奥がぢんぢんと痺れるように痛んだ。すれ違う組員達が真樹夫へと挨拶を投げる。それに返事を返すことすら出来ない。いつもは組員にも愛想の良い真樹夫が返事を返さないことに、組員達が訝しげな表情を浮かべる。
 
 誰もいない場所に行きたかった。独りになりたかった。こんな惨めな自分を誰にも見られたくなかった。粉々に砕けた仮面が歩いた後にばら撒かれている。仮面を付けていない素のままの自分を受け止めてくれる人間がもうこの世界にいるとは思えなかった。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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