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08 泣きわめく(1)

 
「なんで、真樹夫ちゃん来てくれなかったの? ナミ、ずぅっと待ってたのに」
 
 
 まるで自分の可哀想さを最大限アピールするかのような涙声が、数十分前から背中に付き纏っている。先日奈美が待っているのを知りながら、迎えに行かなかった真樹夫への呪詛を、飽きもせず延々と吐き続けている。 廊下を足早に進みながら、真樹夫は、腹の底に溜まって行く苛立ちを取り繕うこともできず舌打ちを零した。露骨な舌打ちに気付いたのか、真樹夫の後ろを付いて歩く奈美がヒックとこれ見よがしなしゃくり声をあげる。
 
 
「真樹夫ちゃん、奈美のことキライになったの? なんで? 奈美のどこが悪かったのか言って、頑張って直すからぁ」
 
 
 ぐすぐすと鼻を啜りながら、今度は責める口調から哀願する声音へと変わる。普通の男だったら、何て健気な女だと思うだろう。こんなにも純真な女を泣かしている自分は、どれほどの極悪人だろうと心から反省するだろう。だが、真樹夫にとっては、そんな奈美の姿も苛立つ要因の一つでしかなかった。
 
 いつもだったら、奈美が少しでも機嫌を損ねれば、優しく優しく宥めていた。有名店のケーキを用意して、砂を吐きそうなぐらい少女趣味なプレゼントを用意して、何時間でも好きだと耳元で囁いてやっていた。だが、今はそんな余裕すらもない。
 
 数日前、犬から告げられた言葉が脳内でぐるぐると回り続けている。
 
 誰にも惚れてない。
 真樹夫のことを好きでいられない。
 
 思い返す度に、今すぐ犬を徹底的に叩きのめして、唾を吐き掛けてやりたい衝動に襲われる。
 阿呆が阿呆が、何様のつもりだ糞犬が! 手前なんて生ゴミ以下の価値もなかったくせに、ゴミ捨て場から拾ってやった恩を忘れて、ふざけたことをほざきやがってクズが!
 
 腸が煮え繰りかえるような憎悪を覚えて、それと同時に心臓が切ないぐらいに痛む。
 
 だけど、犬以上に阿呆なのは、他でもない自分自身だ。あれから数日間、まともに眠れていない。真夜中に起きては、広辞苑を引っ張り出して『惚れてない』『好きでいられない』という言葉を探して、その言葉に別の意味があるのではないかと探ろうとしている。馬鹿げた救いを求めようとしている。そんな自分の愚かな姿を自覚するだけで、惨めな羞恥でいっぱいになる。
 
 しかし、真樹夫がどう足掻こうが、結局のところ犬の言葉の意味するところは一つしかなかった。真樹夫は、あの犬に棄てられたのだ。真樹夫のものだったはずの犬がその手から離れてしまったのだ。その事実に気付いた瞬間、真樹夫は酷いショックを受けている自分に絶望した。棄てられるはずのない相手から棄てられた自分の無様さに打ちひしがれるしかなかった。
 
 あの日から、犬には会っていない。今までは犬にやらせていた雑用も、別の人間に命じている。犬を徹底的に避けている様子は、丸っきり好きな人にフられた女のような遠回しに恨みがましい行動だった。自分が情けないことをしている自覚はある。だが、今はどうしても犬に会いたくなかった。会って、今度は何を言われるのかが怖くて堪らなかった。
 
 背後のすすり泣きが酷くなる。肩越しに振り向くと、大粒の涙が溢れる両目を小さな掌で擦っている奈美の姿が見えた。人目を気にせず、感情を出して泣くその姿に、苦々しさと微かな嫉妬を覚える。
 
 
「ええな、御前は」
 
 
 小さく吐き捨てる。奈美は涙を湛えた瞳を、大きく見開いて真樹夫を見詰めた。
 
 
「泣きたい時に泣けるんやけぇ」
 
 
 八つ当たりじみた台詞に、自己嫌悪が募る。鼻先でせせら笑うと、奈美の顔色が微かに変わった。ピンク色に染まっていた頬からすぅっと色が抜けて、まるで人形のような生気のない表情になった。
 
 
「真樹夫ちゃんは、奈美が泣いても何とも思わないの?」
 
 
 先ほど甘ったれた声で泣いていた女とは思えない、冷めた声音だった。足を止めて、真樹夫は奈美と向かい合った。表情をなくした女は、今まで真樹夫が相手をしてきた可愛いだけの女ではなかった。だが、これがこいつの本性だと思った。お互い、ようやく本性を出したのだと思えた。
 
 
「何とも思わんな」
 
 
 正直に答えたのは、もう偽って優しくするのが無意味だと思ったからだ。奈美の瞳から、みるみるうちに涙がひいていく。奈美は平然とした声で、そう、と相槌を打った。
 
 
「奈美のこと好きじゃないのね」
「そうやな」
「でも、真樹夫ちゃんは奈美と結婚しなくちゃいけないのよ」
 
 
 その言葉を吐いた瞬間、奈美の顔付きが変わった。微か男を見下すような酷薄な表情を滲ませて、奈美は薄く口角を歪めた。
 
 
「だって、奈美と結婚しないと、パパは怒るわ。すっごくすっごく怒るわ。それって真樹夫ちゃんにとっても不利になると思うの」
 
 
 甘ったれた声音で語られるのは紛れもない脅迫だった。その瞬間、初めて真樹夫は奈美を面白いと思った。男に庇護を求めてじゃれ付く可愛い女よりも、薄汚れた内面を曝け出した今の姿の方がよっぽど人間らしい。だからといって、その感情は好意とは程遠い。掌を返して、こちらを脅迫をしてくるのは許し難かった。
 
 
「それは、俺を脅しとるつもりなんか?」
「そんなことないわ。奈美はただ本当のことを言ってるだけよ」
「茅野組が敵になるのを俺が恐れるとでも?」
「真樹夫ちゃんの敵になるんじゃないわ。吾妻組の敵になっちゃうのよ、そうしたらお義兄様がすっごく困っちゃうんじゃないかしら」
 
 
 奈美は『そんなことになったら大変だわ』とでも言いたげに、掌を頬へと当てた。お義兄様という単語に、一瞬片眉が跳ねる。ここで将真を出してくる辺りが、随分としたたかだ。真樹夫が将真を裏切らないと知っているからこそ、奈美は引き合いに出してきたのだろう。
 
 
「随分舐めたこと言うな。可愛い皮が剥がれて、不細工な中身が出てきたやないか」
「ひどぉい、奈美は可愛いもん。みんな奈美のこと可愛い可愛いって言ってくれるもの。奈美は可愛いの、不細工なんて絶対死んでも言っちゃダメ。ぜったいぜえったい可愛いもん」
 
 
 こういうところで親子は似通うものなのか。茅野組長の口癖が『奈美』だとしたら、奈美の口癖は『可愛い』だろうか。親バカと自己称賛のブリッ子の親子は手に負えない。溜息を吐き掛けた瞬間、奈美の唇が奇妙な笑みに歪んだ。醜悪さを絵に描いたような笑顔だ。
 
 
「真樹夫ちゃんのわんちゃんだって、奈美のこと可愛いって言ってくれたわ」
 
 
 わんちゃん、という言葉に、一瞬頬肉が引き攣る。俺の犬のことを口にするな、と喚き出しそうになるのを必死で堪える。奈美はゆっくりと小首を傾げて、真樹夫の顔を覗き込んだ。
 
 
「奈美と真樹夫ちゃんが結婚したら、ペットにあのわんちゃんを飼いましょうね。ちゃんと犬小屋も作ってあげて、可愛い雌犬もあてがってあげるの。子犬が産まれたら、奈美と真樹夫ちゃんと赤ちゃんとそれから子犬で、お庭で遊ぶの。ね? 素敵でしょ?」
 
 
 語られる将来の姿に、猛烈な吐き気を覚えた。顔を顰めた真樹夫を見て、奈美がふふと淡い笑い声をあげる。
 
 
「安心せぇ。俺は御前とちゃんと結婚する」
「奈美のこと好きになれそう?」
「結婚と好きとは関係ない。俺は、俺に有益になるから御前と結婚するんや。やから、そない薄汚い中身見せんな、いい加減吐き気がするわ」
 
 
 ひどぉい、と奈美は頬を膨らませた。仕草だけ見れば、最高に愛らしい。だが、この女の内面は泥だ。それと同じように、真樹夫の体内も泥で埋まっていた。ある意味似た者同士で、結婚すれば騙し合いながらも上手くやっていけるだろう。その豪胆で醜悪な性根は、ヤクザの妻としては悪くない。
 
 それなのに、脳裏を過ぎるのは犬の姿だ。あの犬の中身は、泥ではないはずだと思った。それは、美しくはないかもしれない。だが、きっと純粋な何かが詰まっているはずだと思った。だからこそ、あんなに透明な涙が出るんだ。
 
 
「真樹夫ちゃん、何考えてるの?」
 
 
 奈美が真樹夫を見詰めている。ビスクドールのような睫毛の長い大きな二重の瞳だ。男だったら、この目に心を奪われる。だが、真樹夫が求めているのはこの目ではない。目つきが悪くて、三白眼の小さな目だ。笑うと糸みたいに細くなって、どこが目だかすら解らなくなる瞳だ。
 
 ぼんやりと奈美を眺めたまま、真樹夫は首を左右に振った。
 
 
「何にも」
 
 
 上の空で答える。もうあの目が真樹夫を真摯に見詰めることはない。その事実に、胸が引き千切れるように痛んだ。だが、それを誰にも言いたくはなかった。視線を逸らしたままの真樹夫を、奈美がじっと見上げる。そうして、淡々とした声で言った。
 
 
「奈美はね、真樹夫ちゃんが他の女を何百人抱こうがどうだっていいの」
「随分と寛容やないか」
「だけど、真樹夫ちゃん、奈美のこと好きにならなくてもいいけど、他の誰も好きになっちゃだめよ。ちゃんと奈美と結婚するってことだけは忘れないで。他の人の前では、奈美がイチバンって顔して。そうしたら、奈美も可愛い奥さんのフリをしてあげれるから」
 
 
 そう言い切って、奈美はひらりとスカートを翻して去っていった。真樹夫は、奈美の後姿からすぐ視線を逸らして、じっと自分の掌を見詰めた。指先まで泥まみれだ。こうやって一生泥にまみれて、夫婦揃って嘘だらけの結婚生活を送るのかと思うと、笑いが零れた。それは紛れもない自嘲だった。
 
 

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Published in touch'ボコ題

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