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08 泣きわめく(2)

 
 ジャガイモの皮を剥きながら溜息を零す。溜息を零したところで、今の現状が何一つ変わらないことは解っている。それなのに、ここ数日気付けば溜息が零れている。
 
 ジャガイモの芽を丁寧に包丁でくり貫いてから、水に晒したザルの中へ放り込む。ザルの中には、既に数十個のジャガイモが入っている。明日の朝食の仕込み分は、これでもう十分だろうか。そういえば、最近新しいガキが数人部屋住みで入ったから、もう少し多目に用意しておいた方がいいかもしれない。そんな事を頭の中でぼんやりと試算しながら、無意識にまた溜息が溢れていた。
 
 溜息の原因は解っていた。解っていても、誰にも相談することは出来なかった。
 
 元気だけが取り得のような小山がここ数日落ち込んでいるのを見て、下っ端の頃からよくしてくれた兄貴分の桧垣などは、さり気ない労わりの言葉を投げ掛けてくれた。
 
 
「何か悩みがあんなら聞くぞ? ぎゃんぎゃん騒がねぇお前なんざ気色悪いからな」
 
 
 わざと茶化すような言い方で気遣ってくれる桧垣の優しさに、小山は思わずすべての経緯を吐露しそうになった。だが、言葉は咽喉の奥で固まって出てこなかった。桧垣に相談するには、あまりにも愚かしい話だった。
 
 ゴミ捨て場から拾われた犬が上司である飼い主に惚れてしまっただなんて話、一体誰に言える。その上、その飼い主には、可愛らしい婚約者がいる。その婚約者に嫉妬して、泣き喚いたあげくに、飼い主に惚れていないなどと嘘を吐いた。
 
 その結果が今のこの現状だ。とうとう飼い主から呆れられてしまった。ここ数日、小山は真樹夫から徹底的に存在を無視されている。今まで小山がやっていた雑用は、別の者へと言い付けられている。何度も真樹夫から殴られながら覚えさせられた真樹夫好みのコーヒーの味も、小山にしか作れないのに、今は別の誰かが作っている。小山は真樹夫の傍にすら近寄れなくなった。たまに廊下で擦れ違う時ですら、真樹夫は小山をちらりとも見ようとはしない。真樹夫は、もう小山を見限ってしまった。
 
 真樹夫に捨てられたのだと気付いても、もう涙すら出てこなかった。完全なる自業自得だ。勝手に惚れて、勝手に悩んで、空回りしたあげくに真樹夫への本心を偽った。惚れていない、などと裏切りじみた言葉を言ってしまった。真樹夫は、自分に懐いている犬を可愛がってくれていた。だから、今はもう自分に懐いていない犬など要らないのだろう。
 
 その上、小山は真樹夫を殺したいなどと、そんな最低なことをちらりとでも考えてしまった。真樹夫を自分だけのものにしたい、と馬鹿げた事を願ってしまった。ゴミ以下の価値すらなかった自分があの人を手に入れれるとでも思っていたのか。自嘲が込み上げてきて、頬が微かに痙攣する。
 
 剥き終わったジャガイモを、今度は一口大に切っていく。当初は野菜ではなくて指を切っているんじゃないかと言われるほど不慣れだった料理も、数年も経てば慣れた。料理は喧嘩に似ている。頭で考えるよりも、ずっと身体で覚える方が早い。
 
 深夜のこの時間に、朝飯の仕込みをしている時間が心地よい。飯だけは平等に、誰の口にも入っていく。真樹夫には会えなくても、小山が切ったジャガイモは真樹夫の腹へ収まる。真樹夫のことを考えれば、堪えきれない悔恨が湧き上がってくるが、それでも真樹夫のために何かをしたかった。それが虚しい自己満足だとしても。
 
 サラダ用のキュウリを用意しようと冷蔵庫を開けた時、不意に背後から長い腕が伸びてきた。小山の肩上をすり抜けて、冷蔵庫の中からデザートに用意していたイチゴを二つほど盗み取る。振り返ると、見たくもない顔が見えた。イチゴを頬に放り込みながら、溝尾がにやにやと小山を眺めている。
 
 
「何、っすか、溝尾さん?」
 
 
 冷蔵庫を閉めながら、静かに後ずさる。冷蔵庫の微かな振動が背中に当たった。溝尾はイチゴを噛み締めながら、小山との距離を更に縮めようと近付いてくる。触れ合いそうなほどの至近距離で、じっと双眸を見据えられた。
 
 
「小腹空いたから、つまみ食いしに来た」
「そうっすか。なら、どうぞ好きなだけ食って、さっさと寝て下さい」
 
 
 素っ気ない小山の言葉に、溝尾は、つれないなぁ、と愚痴るように呟いた。溝尾の身体を離そうと、胸を両手で押し返す。だが、溝尾の身体は微動だにしない。逆に更に距離を詰められて、とうとう腹がピッタリと密着した。男の固い腹が押し付けられる感覚に、ぞわっと首筋が粟立つ。
 
 
「ちょ、離れてくださっ…」
「ほんとに好きなだけ食っていいわけぇ?」
 
 
 溝尾の声がねっとりと鼓膜に絡み付く。一体何が言いたいんだ、と睨み付けた瞬間、唇にイチゴが押し込まれた。
 
 
「ぅグッ…!?」
 
 
 咥内に入った異物を、反射的に奥歯で噛み締めてしまう。途端果肉が弾けて、甘酸っぱい果汁が咥内に広がる。そうして、本当の驚愕は次の瞬間訪れた。溝尾が小山の唇に食らい付いていた。イチゴの果肉が散らばる咥内に生ぬるい舌が突っ込まれて、乱暴に掻き回される。
 
 
「んッ…グ!」
 
 
 無精髭がざらりと顎を掠める。舌を噛み千切られないようにか、溝尾の手は小山の顎をガッチリを固めていた。開けっ放しの唇の端から、イチゴの果汁と涎がだらだらと垂れる。溝尾の舌が抜けた歯の跡を弄くっていくのに、酷い嫌悪を感じた。
 
 腕が暴れる。そうして、掌にソレの感触を感じた瞬間、小山は溝尾の首へと目掛けて腕を横薙ぎに振った。ヒュンと包丁の刃先が空気を切り裂く音が響く。だが、それが溝尾の首を切り裂くことはなかった。包丁を握り締めた小山の右手を、溝尾がしっかりと掴んでいる。
 
 舌の上に転がったイチゴの果肉をこそげ取って、溝尾はようやく小山の咥内から舌を引き抜いた。唾液にまみれたイチゴを噛み締めながら、溝尾がハハッと短い笑い声をあげる。
 
 
「怖ぇなぁ。ヒステリー女じゃねぇんだから、キスぐらいで包丁持ち出すなよ」
「今すぐ、離れろ」
 
 
 低く押し殺した声で言う。あまりの憤怒にコメカミの血管が浮かび上がっていた。ドクドクと脈打って、今にも破裂してしまいそうだ。だが、そんな小山の様子に頓着することもなく、溝尾は暢気そうに微笑んだ。
 
 
「お前ってさ、左奥歯が一本ねぇんだな。折られたの?」
 
 
 その一言に、脳味噌の理性が弾け飛んだ。小山の左奥歯が一本ない事を知っているのは真樹夫だけだ。真樹夫さんだけだったのに!
 
 左膝を殆ど垂直に突き上げる。直ぐに膝頭にぐにゃりとした内臓の感触が来るはずだった。だが、膝が腹に突き刺さる前に、溝尾は軽やかなステップで後方へと下がっていた。両手を降参のポーズにあげたまま、危ないなぁ、と空っとぼけた声をあげる。
 
 
「少しは落ち着けよ、こやまぁん」
「人のこと馬鹿にすんのもいい加減にしろ」
 
 
 包丁の切っ先を溝尾へと突き付けながら吐き捨てる。咥内に残ったイチゴの味が気色悪くて、床へと唾液ごと吐き捨てる。唾液に混じって、赤い欠片がてらてらと光っていた。溝尾が肩を竦める。
 
 
「馬鹿になんかしてないって。俺は至極真面目にお前をキスしたかっただけだよ。好きだって言ったじゃん」
 
 
 確かに溝尾の口から、好きだとは聞いた。だが、それは悪意や揶揄に満ちていて、本気の好意とは小山は感じられなかった。子供がオモチャを好きだというのと同じ類だ。結局は飽きるか、壊すかしてしまうくせに。
 
 
「あんたの好きって、こういう事なんっすか」
「んー、どうかなぁ。とりあえず性欲コミコミで、お前のことどーにかしてやりたいとは思うねぇ」
 
 
 はぐらかすような溝尾の口調に、憎悪が腹の中で暴れ狂う。腐っても兄貴分だ。殺すことは出来ない。だが、殺してやりたい。不躾に、無神経に、小山の恋情を掻き乱すこの男を嬲り殺してやりたい。
 
 小山の殺意を感じ取ったのか、溝尾の笑みが深まる。嘲り笑う表情が堪らなく腹立たしい。
 
 
「なぁ、俺のこと好きになっちゃいなよ」
「は、ぁ?」
「真樹夫さんやめて、俺のことを好きになれよ。俺なら、お前に優しくできる」
 
 
 馬鹿げた事を言っていると思った。どこをどう勘違いしたら、好きになれなんて下らない冗談を吐けるのか。小山がどれだけ真樹夫に心酔しているか知っているくせに。
 
 
「絶対に、嫌っす」
「何で? どうせ報われないなら、他の奴にしといた方が絶対いいじゃん」
「だからって、俺があんたを好きになることは絶対にない」
 
 
 噛み付くように言い放った。溝尾が眉を顰めて、やれやれと言わんばかりに首を左右に振る。その露骨な身振りを白々しく眺めながら、小山は吐き捨てた。
 
 
「もう、俺に真樹夫さんを殺せ、とかそそのかすのはやめろ」
「そそのかす? 馬鹿言うなよ、俺はお前の願望を代わりに言ってやったんだ」
「俺は真樹夫さんを殺したいなんて思ってないっ…!」
 
 
 それこそ小山の願望だった。真樹夫を殺すことを望んでいない自分を望んでいた。喋った瞬間、一瞬歯の根がずれた。ガチッと前歯が擦れる音が響く。溝尾がふぅんと相槌を打ち、物言いたげな薄笑いを浮かべて小山を見詰める。
 
 
「じゃあ、一生お前は惨めなまんま真樹夫さんの傍に居続けるのか? 真樹夫さんが奈美さんと結婚して、セックスして、子供が出来て、幸せな家庭の横で、お前は永遠に物分りのいいペットのふりをし続けるわけか?」
 
 
 溝尾の言葉が杭のように小山に突き刺さる。咽喉がぐっと詰まって、眼球が潤みそうになる。それを必死で堪えながら、小山は噛み締めるように呟いた。
 
 
「もう、報われるとか、そんなんどうでもいい」
 
 
 それは自己暗示の言葉のようにも聞こえた。
 
 
「俺は、真樹夫さんの犬で、それ以上でもそれ以下でもない。真樹夫さんに救われた人生だ。真樹夫さんのために生きて、真樹夫さんのために死ぬ。真樹夫さんが幸せになってくれるならそれだけで十分だって解ったから、もうそれでいい。俺は、真樹夫さんを裏切らない」
 
 
 ぽかん、と溝尾が唇を半開きにしている。それから、空気が抜けるような声をあげた。
 
 
「お前さ、それマジで言ってんの?」
 
 
 小山は無言で頷いた。溝尾がハッと嘲るように鼻を鳴らす。
 
 
「お前はマザーテレサにでもなるつもりか? 無償の愛なんつぅもんが存在するなんて本気で思ってんの?」
「俺は何も望んでない」
「馬鹿かお前。馬鹿もここまで来たらいっそ気狂いだな。そんな都合の良い自己犠牲、いつか破綻するなんて見え見えじゃねぇか」
 
 
 溝尾の言っていることは確かに正論だ。小山だって、無償の愛なんて存在を信じていない。誰かを愛し、尽くすことさえ、自己満足の延長線でしかない。だからこそ、小山の報われなくてもいいという思いは、結局のところ究極の自己愛でしかなのだ。それも最悪に卑怯な形で現れたエゴイズムだ。真っ直ぐ愛することに怯えて、逃げ出した故の自己満足な愛情なんて、どんな感情よりも醜悪だ。
 
 愛情という名の自己保身が体内に詰まっているのを感じると、もう何もかも耐えられなくなりそうだった。包丁で身体中を滅茶苦茶に切り裂いて、体内の汚物をすべて出してしまいたくなる。
 
 
「呆れたな。随分弱っちくなったもんで」
「五、月蝿いッ!」
「喚くなよ、真夜中だぞ。兄貴達を起こすつもりか?」
 
 
 後ろ頭をガリガリと掻きながら、溝尾が呆れたように言う。
 
 
「それじゃなくても、組中がピリピリしてるっつうのに」
 
 
 その発言に、小山は訝しげに顔を歪めた。小山の様子を見て、溝尾が、あぁ、と小さく声を漏らす。
 
 
「お前はまだ知らねぇのか」
「…何がっすか」
「今日、組長の遺言状が読まれたっつうのは知ってんだろ?」
「当たり前じゃねぇっすか」
「遺言状に、次期組長は真澄さんって書いてあったんだってよ」
 
 
 小山は、目を剥いた。性質の悪い冗談を聞いたと思った。小山ぐらいの下っ端組員だって次期組長は長男である将真だと思い込んでいたのに、それがどこをどう間違ったら三男の真澄が組長になるのか。いや、誰が組長になろうが小山にとってはどうだっていい。問題は真樹夫だ。
 
 
「どう考えたって、真澄さんが遺言状を捏造したに決まってんだけどな。だけど、案外上手く根回ししたのか幹部の爺共もあんまり表立って騒いでる様子もねぇし、このまま真澄さんが組長ってことで進むみたいだぞ。……まぁ、将真さんと真樹夫さんは大人しく聞き入れるとは思わねぇけどさ」
 
 
 そうだ。真樹夫は今まで将真を組長にするために尽力してきたのだ。真樹夫は、元々ヤクザというものにも権力にも金にも大した執着を持っていない。その真樹夫がここまでヤクザをやってきたのは、兄である将真を支えるためだと小山は知っている。
 
 
『将兄は脳味噌筋肉で出来とるけぇ、誰かが参謀役になったらなあかんけぇなぁ』
 
 
 そう笑って、小山に言った。将真のために今まで用意してきた席を横から真澄にかっさらわれて、真樹夫が平静でいるわけがない。
 
 不意に、焦燥に駆られた。今すぐ真樹夫の傍に行かなくてはと思った。だが、その思いは一瞬で萎んだ。行ってどうする、という醒めた気持ちが腹の底から湧き上がった。自分のような犬が傍に行ったところで何も変わらない。ただ、無駄に真樹夫を苛立たせることしか出来ないだろうに。
 
 そう思った瞬間、足がピタリと床に貼り付いたまま動かなくなった。直立不動のまま小山は固まった。絶望にも似た空虚が全身を占めていた。真樹夫のために生きると誓ったのに、自分には何も出来ないのだ。それが息苦しいぐらい虚しかった。
 
 そんな小山を覗き込んで、溝尾が朗らかに笑みを浮かべる。
 
 
「下手な小知恵を働かせてんのか?」
「…小知恵?」
「犬なら犬らしく飼い主に向かって走っていきゃいいのにさ。お前さ、もう犬じゃねぇよ。だって、目が完全に――」
 
 
 突然、劈くような絶叫が鼓膜の内側に響き渡った。泣き声とも悲鳴とも取れるその慟哭は、真夜中の静寂に甲高く突き刺さった。小山は、咄嗟に両耳を覆った。それは、その叫び声が五月蝿かったからなのか、それとも溝尾の言葉の続きを聞きたくなかった故の行為なのかは解らなかった。
 
 
「な、なんだぁ?」
 
 
 目の前で、溝尾が目を白黒させている。反射的に溝尾の身体を押しのけて、小山は駆け出した。慟哭の元へと向かって、全速力で走る。聞いているだけで胸が引き裂かれそうになる叫び声だった。その声には聞き覚えがあった。この屋敷に相応しくない幼い子供の泣き声。次期組長になるという男の愛人として連れられてきた子供の姿が脳裏を過る。
 
 声に近付いてきたと思った時、不意に慟哭が止まった。そうして、不意に前方の部屋から子供が飛び出してきた。闇の中で、子供の目が餓えた獣のようにギラギラと光っている。その手に握られていたのは飛び出しナイフだ。
 
 
「おいっ!」
 
 
 咄嗟に声を張り上げる。だが、子供は小山の呼掛けに答えなかった。ナイフを片手に、庭へと向かって駆けて行く。その背を追い掛けようと思った瞬間、小山は気付いた。聞こえてしまった。子供が飛び出した部屋から、ギィギィと何かが軋む音が聞こえる。不気味で、おぞましい音が。
 
 その部屋の主を、小山は知っている。下っ端の小山にも気安く話しかけてくれた快活で優しい女の子、真樹夫の妹――真昼の部屋だ。
 
 心が凍り付くのが解った。息が止まって、足元がふらりと揺らぐ。力が抜けそうな膝を必死で動かして、前へと進む。小山を脅かすように、ギィギィギィと軋み音がだんだん大きくなってくる。まるでホラーゲームの主人公にでもなったかのような気分だ。
 
 そうして、部屋を覗き込んだ瞬間、小山は口許を両手で覆っていた。そうしないと、悲鳴が溢れてしまいそうだった。
 
 梁に掛かったロープが真昼の首に食い込んでいた。真っ赤なマニキュアが塗られた両足は、床から数十センチ上を浮いている。光彩が抜けた眼球がぼんやりと足元を見詰めていた。それは、まるで人形のようにも見えた。美しい人形をずたずたに引き裂いて吊るし上げたような、そんな凄惨な光景だった。
 
 真昼が既に息絶えていることは明らかだった。柱へと凭れ掛かったまま、小山は息を止めて、宙にぶら下がった真昼を見詰めていた。動けなかった。どうしても動けなかった。
 
 騒ぎを聞き付けた組員達がぞくぞくと真昼の部屋へと集まってくる。その誰もが絶句して、真昼の死を眺めていた。つい数時間前までは生きていた少女が物のように吊るされている光景を。
 
 そうして、今この瞬間、最も聞きたくない声が聞こえた。
 
 
「真昼…?」
 
 
 真樹夫が真昼を見上げていた。
 
 

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