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09 抵抗する(3)

 
 すこし歩くか、と気安い口調で言われた。
 
 あたりは既に淡い夕闇が広がり始めている。オレンジと藍色の狭間に揺れる空をちらと見やってから、真樹夫は独りごちるように漏らした。
 
 
「俺はヤクザにむいとるか」
 
 
 小山は俯いていた顔をぱっと上げた。斜め前にある真樹夫の背を見つめる。だが、その背から伺える感情はない。そのまま、じっと見つめていると、真樹夫が肩越しに振り返った。
 
 
「お前はどう思う」
「わかりません」
 
 
 愚直な小山の返答に、真樹夫は微かな苦笑を滲ませた。
 
 
「なら、自分で想像してみい」
「想像ですか?」
「ヤクザやっとらん自分を」
「真樹夫さんが拾ってくれてなかったら、俺はゴミ捨て場で野垂れ死んでました」
 
 
 真樹夫が、ふはは、と息を吐き出すように笑う。
 
 
「そうやな。やけど、もしかしたら俺やなくて、もっとええ人間に拾われて、お前は更正したかもしれん。家に帰って、家族と和解して、今頃はまっとうな仕事をして、そこそこ可愛い女と付きおうて、いつか子供もできとったかもしれん」
 
 
 独白するような真樹夫の言葉に、指先が震えるのを感じた。恐怖からではない。訪れなかった未来への後悔でもない。それは限りなく怒りに近い感情だった。
 
 ありもしない自分の未来を語られる。誰もが夢見るような幸福で平凡な人生を。だが、それは小山が望んだ人生ではない。その人生には真樹夫の姿はない。
 
 
「それ、何なんですか」
「何かって?」
「俺に何を言いてぇんですか」
 
 
 怒りで声が震えて、言葉が粗雑になる。あからさまに目を尖らせた小山を見て、真樹夫が微か笑うように目を細める。
 
 
「お前の人生はクソや、って言いたいんや」
 
 
 笑いながら罵られる。だが、不思議とその言葉には怒りは湧いてこなかった。ただ、空虚な実感があるだけだ。
 
 短く息を吐き出して、真樹夫が続ける。
 
 
「ヤクザに拾われて、舎弟になって、そのヤクザから女みてぇに犯されて、一生家族を持つこともなく、最後はどうせ弾除けか鉄砲玉になって死ぬのがわかっとる。クソみてぇな人生だ」
 
 
 真樹夫が立ち止まって、くるりと小山と向かい合う。
 
 同時に、空のオレンジ色が藍色にふっと飲み込まれて、一瞬で周囲が薄闇に包まれた。遠くに見える街灯がぽぽっと灯るのが視界の端に映る。視界がけぶるような闇の中、真樹夫の口元が笑っているのが見えた。だが、その目元は見えない。
 
 
「お前が死んでも、何も残らん」
 
 
 それは残酷な言葉だ。だが、悲しいとは思わなかった。それはずっと前から小山が自覚していた唯の事実だ。
 
 
「俺は――」
 
 
 返事をするための言葉が途切れる。
 
 それでもいい。クソのような人生でも、何も残せなくても、真樹夫の傍にいられればそれでいい。恋人はいらない。子供もいらない。幸福な人生も必要ない。そんなものと比べられないくらい、目の前の男に狂っていた。愛と表現するにはおぞまし過ぎる、狂気じみた感情だった。
 
 
「俺は――真樹夫さんのために死にたいです」
 
 
 貴方のために死ねたら、それで俺はいいんです。十分なんです。思いは溢れるほど込み上げてくるのに、言葉にできたのはたったそれだけだった。
 
 ぼんやりと真樹夫を見つめる。真樹夫の口元から静かに笑みが消えていく。一文字に結ばれた唇が僅かに戦慄いたのが見えた。
 
 真樹夫は、緩く首を左右に振った後、不意に小山の手を掴んだ。そのまま大股で歩き出す。
 
 
「真樹夫さん、どこに行くんっすか」
 
 
 そう問いかけても、真樹夫は返事をしてはくれない。
 
 何分歩いただろうか。ある建物の前で真樹夫が立ち止まった。けばけばしいネオンで彩られた建物は、一目見ただけでラブホテルだと判った。小山が怖じ気づくだけの猶予もなく、無理矢理腕を引っ張られてホテルの一室へと連れて行かれる。やたらとピンク色が目立つ部屋を挙動不審に見渡していると、備え付けのタオルを一枚投げつけられた。
 
 
「風呂入っとけ」
 
 
 短く命じられる言葉に頷く間もなく、真樹夫が部屋から出て行く。ひとりぼっちになった部屋の中で、タオルを両手に握りしめたまま小山は立ち尽くした。
 
 
 
 真樹夫が戻ってきたのは、三十分後だった。
 
 濡れた髪をいい加減にタオルで拭っていると、部屋の扉が開かれる音が聞こえた。慌てて立ち上がって、扉を見遣る。だが、そこに見えた姿に小山は一瞬硬直した。
 
 
「あぁ、あれや」
 
 
 真樹夫が小山を指さしながら、隣に立つ女へと話しかける。真樹夫の隣に立っているのは、黒髪のショートカットの女だ。目尻に長く引かれたアイラインと真っ赤な口紅が目立つ。身体のラインが目立つ、ピチピチとしたワンピースを身につけている。ガムでも噛んでいるのか、女はくちゃくちゃと口を動かしたまま、右手をいい加減に真樹夫へと差し出した。
 
 
「前金でよろしく」
「相変わらずしっかりしとるな」
 
 
 笑いながら、真樹夫が女の手へと折り畳んだ札を渡す。正確には数えられないが少ない金額ではない。
 
 小山はタオルを頭から垂らしたまま、唇をはくはくと上下に動かした。なぜ、どうして、という思いが込み上げてくる。
 
 
「あ、あの、真樹夫さん…」
「なぁ、お前童貞やろ?」
 
 
 不意に投げ掛けられた無神経な質問に、カッと頬に血がのぼるのを感じた。唇を半開きにしたまま硬直した小山を見て、真樹夫がにやりと笑う。
 
 
「筆おろしさせたる」
「は?」
「安心しぃや。お前は寝っ転がっとるだけでええ。後はプロがやってくれるけぇ」
「プロとか言わないで欲しいんだけど」
 
 
 それまで黙っていた女が不服げに声を上げる。女はベッド脇に近付くと、備え付けのティッシュを数枚引き抜いて、口の中のガムをぺっと吐き出した。ティッシュには微かに口紅の朱色がこびり付いている。
 
 
「あたしが淫乱みたいじゃん」
「違うんか?」
「ちげーし、あたしはただお仕事に対して真摯なだけ。つまり真面目な働き者ってわけ」
 
 
 女が人差し指で自身を指さす。その爪には口紅と同じ真っ赤なネイルが塗られている。真樹夫は、はいはい、と言わんばかりにいい加減に手のひらを振った。呆然としている小山を見ると、途端呆れたように口を開く。
 
 
「なに突っ立っとるんや。はよ服ぬげ」
「ま、真樹夫さん、おれ、おれ、いいです」
「あぁ?」
「俺、いらないです」
 
 
 震える声で訴えているのに、真樹夫の笑みはどんどん深くなっていくばかりだ。
 
 
「まぁ、そう言うなや。俺もほんの少しぐらいは罪悪感っつうもんを感じとるんやで。お前を童貞のまま非処女にしたことに対して」
 
 
 空々しい真樹夫の台詞に、女が驚いたように小山と真樹夫と交互に見遣った。
 
 
「え、真樹ちゃんこいつとヤッてんの?」
 
 
 小山を指さして女が訊ねる。その言葉に、子供の頃を宝箱を覗かれたような不快感と羞恥が込み上げるのを感じた。目の奥が熱くなって、真っ直ぐ前がみれなくなる。
 
 
「あぁ、俺の女や」
「えー、いつからこんな趣味になったのさ。あんたは面食いだと思ってた」
「面食いやで。可愛いやろ?」
 
 
 真樹夫が顎で小山を指す。その仕草にひかれるようにして、女が俯く小山へと近付いて来た。鼻先が触れ合いそうなほどな距離で真下から顔を覗き込まれる。その距離感に驚いて身を仰け反らせると、女は鼻梁に皺を寄せるようにして相貌を崩した。
 
 
「ふへっ、へ、意味わかんね」
 
 
 その笑い方は、間抜けな犬の仕草を笑うような、微かな和やかさが滲んでいた。女の手が伸ばされる。細くて柔らかい掌がひたりと小山の頬に触れた。
 
 
「あたし、キリ子よ」
「きりこ、さん?」
「偽名だけどね。両親がキリスト教信者だったの」
 
 
 そう言うと、キリ子は雑な仕草でワンピースの胸元をぐいと片手で引き下ろした。豊満な左胸の上には、十字架とハートが茨で絡み合った刺青が彫られている。一目見て、小山はパッと視線を外した。
 
 
「はは、うぶ!」
 
 
 キリ子が声を上げて笑う。思わず後ずさろうとすると、キリ子の手が予想外な強さで小山の腕を掴んだ。
 
 
「ね、私ともしようよ。気持ちよくさせたげるからさぁ」
 
 
 ねっとりとした声で耳元に囁かれる。その声音にぞわりと産毛が逆立つのを感じた。小山は、微かに嫌な唾液がわき上がってきた口元を鈍く動かした。
 
 
「お、おれ、貴女としたくないです」
「なんでぇ?」
「おれ、おれ…」
 
 
 痴呆になったように俺と繰り返す。救いを求めるように真樹夫を見つめる。それなのに、真樹夫は微笑んだまま小山を見返すだけなのだ。その微笑みに目が潤む。どうして、真樹夫は小山を他の女に差し出すような真似をするのか。
 
 真樹夫がそっと唇を開く。
 
 
「抱け。小山、命令や」
 
 
 目の前が真っ暗になる。唇がわなわなと震えて、指先からすべての血の気が床へと落ちていくような感覚だった。
 
 真樹夫が近付く。その掌にとんと胸元を押された。尻からベッドへと倒れ込んで、シーツに染み込まされていたであろう噎せ返るような人工香料の匂いが鼻を付いた。
 
 キリ子がまるでチーターのようにしなやかな仕草で小山の上へとのしかかってくる。
 
 
「大丈夫、怖がんなくていいよ。あんたは何にも悪くないんだから」
 
 
 悪くないって何が。悪くなかったら、きっと真樹夫はこんな残酷なことを小山に命じたりはしなかった。何かが決定的に間違っていたのだ。
 
 キリ子が小山の耳朶を唇で柔らかく食む。耳の輪郭をぬめり気のある舌が這っていく。蛞蝓のような感触を感じながら、小山はベッドに倒れたまま真樹夫を見上げた。
 
 
「まきおさん」
 
 
 唇が譫言のように名前を呼ぶ。息をするのが苦しい。真樹夫は緩く首を斜めに傾けて、酷く慈愛に満ちた眼差しで小山を見下ろした。
 
 
「命令だ」
 
 
 無慈悲な言葉に、自分の咽喉がかひゅと音を立てるのが聞こえた。
 
 

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